その華麗なプレーの数々から「妖精」と呼ばれた天才。サッカーを芸術の域にまで高めることの出来る世界でも数少ない選手の一人だった。ユーゴスラビア代表として出場した90年のイタリアW杯で世界中を驚かせる高い技術を見せつけ、一躍スパースターの仲間入りを果たす。
マルセイユとベローナでは怪我に泣かされたこともあって十分な活躍はできなかったが、名古屋に来てからはベンゲル監督の下でトップフォームを取り戻し、数々のファンタジーを生み出した。
95年にはJリーグ年間最優秀選手に選ばれており、2度の天皇杯優勝にも導いている。だが、代表レベルでは国家の分裂と内戦に伴い、多くの苦しみも味わって来た。92年の欧州選手権は開幕直前に出場停止となり、94年のW杯米国大会には予選への出場さえ認められなかった。
98年の仏W杯で国際舞台に復帰し、2000年の欧州選手権で代表を退いた。現セルビア・モンテネグロ・サッカー協会会長。