代表 |
アルゼンチン |
| 所属クラブ |
東京ヴェルディ1969監督 |
| 生年月日 |
1952年8月3日 |
| 身長・体重 |
167cm・64kg |
所属クラブ
推移 |
クラブ)
レッドスター・コルドバ
-
インスティトゥート・コルドバ
- ウラカン -
トッテナム・ホットスパー
- PSG(仏) - ブラックバーン
- QPR - フォートローダー
デール・ストライカーズ(米)
監督歴)
スウィンドン・タウン -
ニューカッスル - WBA -
トッテナム -清水 -
アメリ カ(メキシコ) -
クロアチア・ザグレブ -
横浜FM - アルイテハド -ラシン-東京V |
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小柄な体躯を高い技術と戦術眼でカバーし、南米出身の選手として初めてブリテン島で成功したとされる頭脳派のMF。
70年から地元のコルドバでプレーし、78年のW杯アルゼンチン大会では母国を初優勝に導く立役者となった。この大会では、アルファ
ベット順に背番号を付けたため、1番をつけたフィールド・プレーヤーとしても話題
となった。
78年夏にスパーズのバーキンショー監督が直接アルディレスのもとを訪ね
て、同胞のリカルド・ビジャとともに£75万の移籍金で海を渡った。
当初はアルゼン
チンの選手がイングランドの水に馴染むのか不安がったファンの心もあっという間に
捉え、南米のエッセンスを加えたスパーズは81年にFA杯を制覇する。だが、フォーク
ランド紛争のために翌年はPSGにレンタルされ、連覇を果たしたFA杯決勝の舞台には
いなかった。
当時、スパーズのファンは「オジーが帰って来るなら、フォークランド
なんてくれてやる。」と叫び、自らのアイドルが復帰することを待ち望んだ。
スパーズでは、1984年にUEFAカップも制覇。その後ブラックバーンに貸し出された
後、無償でQPRに移り、最後はアメリカでもプレーした。
1989年からは監督となり、スウィンドンを初のトップリーグ昇格に導いたが、クラブ
の不正経理が発覚したためにこれを取り消されるという苦汁も味わった。
以後WBAで
も昇格を果たし、清水、クロアチア、横浜ではタイトルも獲得。名将と呼ぶに相応し
い実績を積み重ねている。
アルゼンチン代表としては42キャップ、8ゴールを記録。82年のW杯スペイン大会にも
出場している。 |
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19 Oct.,2003
Sun Garden, Kashiwa
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