Soccer Days > Reading > フットボールコラム > 武田修宏
         
 
2001/12/29掲載
武田修宏
 
日本リーグ時代からJ創成期にかけて日本のサッカー・ブームを支えたストライカーがスパイを脱いだ。

Jリーグでの通算得点数94は、中山、カズ、城に次ぐ歴代4位。 読売クラブ〜ヴェルディ川崎(現東京V)の黄金期をラモス、カズらと形成し、日本においてマイナー・スポーツであったサッカーが広く認知されていく過程では、正に広告塔と呼べるほどの露出度を誇っていた。

武田修宏は、サッカーというスポーツが日本社会において地位向上を図る上で、様々な形で貢献してきた選手だった。
若いうちは、口の悪いファンから夜のゴールゲッターなどと揶揄されることもあったが、逆に言えばそれだけの人気と実績を持っていた証拠とも言えるだろう。

浜松の丸塚中学時代からジュニア・ユース代表のエースとして注目を集めていた逸材は、周囲の反対を押し切って越境入学となる清水東高へと進み、すぐにレギュラーの座をつかむ。
高校1年時の高校選手権では、長谷川、大榎、堀池の清水三羽烏を最終学年に揃え、ダントツの優勝候補と言われながらも帝京高・前田治(元横浜F)の一発に沈み、準優勝に終わる。
この大会で、強豪チームの1年生ストライカーとして活躍したことからその名前を知った人も多いと思うが、すぐに「セブンティーン」などの女性向け雑誌にも大きく取り上げられるようになり、その人気はサッカー界を超えたものへと飛躍していった。

その後は高校選手権とは縁が無かったが、その評価は落ちることなく県予選の得点記録を塗り替えるなど順調に成長していった。
当然、国体にも1年生から参加し、2年連続で準優勝に甘んじるも、3年のときには見事その雪辱を果たして優勝を飾っている。

卒業後は、まだ多くの有力選手が大学へ進んでいた時代の中、日本リーグへ飛び込むことを決意。静岡第一テレビへ入社し、読売クラブでプレーする形を選択した。
ここでも1年目からレギュラーに定着。リーグ戦全22試合に出場し11得点を挙げて新人王とベスト11の2つの栄冠を手にしつつ、読売クラブの3度目となるリーグ制覇に大きく貢献した。

日本リーグでの活躍が認められ、年明けの代表合宿に早々と招集されると、壮行試合となった日本リーグ選抜戦で初めて日の丸のユニフォームに袖を通し、87年4月8日のソウル五輪一次予選の対インドネシア戦でA代表デビュー。
その代表デビュー戦では、ロスタイムに初ゴールを挙げるという離れ業をやってのけた。
当時の専門誌には、「魔弾の射手」として得点力不足に悩む日本の救世主として取り上げられていたのを覚えている人も多いことだろう。

翌年のJSLのポスターには牛若丸のいでたちで登場し、すでにサッカー人気復活のための切り札的存在となっていた。
同い年で、プロ野球界に鮮烈なデビューをした西武ライオンズの清原と比べられることも多く、サッカー界を一手に背負って立つ新星の登場に喜んだファンも数知れなかったはず。

その後も順調に得点を重ね、日本リーグでは通算148試合に出場し48得点を挙げている。

また、カズの帰国以後は、ともにサッカー界の顔として多くのTV出演をこなし、ファッション・ショーにも登場するなどの活動で、それまでサッカーに興味のなかった人達へも大きなアピールを果たして来た。
芸能プロダクションに所属し、遊び過ぎだとの批判もあったが、一過性にしろ多くの女性ファンを獲得し、各方面のメディアに多大な影響を与えたことに違いはない。

そのプレーの特長は、何と言ってもその得点力。決して自らゴールをこじ開けていくタイプではないが、ハイエナのごとくこぼれ球を常に狙い、押し込むようなゴールが真骨頂だった。
また、DFの間をすり抜ける速さも武器であり、DFは並ばれるだけでも嫌な存在だったことだろう。
ラモスというパッサーや、カズのようなチャンスメーカーにも恵まれワンタッチ・ゴーラーとしての嗅覚を研ぎ澄ましていった。

代表としては、93年ドーハの悲劇では、イラク戦の終盤に投入された際に襟を立てて登場したことや、余計なセンタリングを試みたことがロスタイムの失点につながったとして多くのバッシングも受けている。

国際Aマッチには18試合に出場。ついにW杯の夢は叶わなかったが、6年に渡って代表に選ばれていたことは、日本を代表するフォワードであったことの証。

国際舞台で通用するにはフィジカル面での強さが足りないことが大きなネックとなっていたが、武田の全盛期には日本が多くのチャンスをつくってねじ伏せるようなサッカーをアジア相手と言えども出来なかったために、一瞬のスピードと嗅覚で勝負するタイプは必要とされにくかったことも不運だった。

V川崎では数々のタイトルを獲得し、94年にはベストイレブンにも選ばれているが、意外にもJSL時代を通じても得点王のタイトルは獲っていない。

96年には、オフト監督に請われて磐田へレンタル移籍をすると、右のアウトサイドとして起用され、プレーの幅を広げることとなる。
翌年は、シーズン途中で京都へ移籍。
  その後の市原では2年間プレーし、若いチームに豊富な経験を伝えてJ1残留にも大きく貢献した。
昨季は、パラグアイのスポルティボ・ルケーニョへと活躍の場を求めたが、思うように試合出場もならずに帰国。古巣の東京Vへと戻っていた。

晩年は決して恵まれた環境にあったとは言い難いが、サッカー界に光を与えた選手としての功績は実に多大なものがある。
栄光と挫折と知る男だからこそ伝えることができることも数多く持っているだろう。
今後の活躍にも期待したい。


著者:らいてぃー 

 
 
  メールマガジンの
ご購読(無料)は
こちらから <
enter>