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| 2003/03/07掲載 |
| 【古河電工サッカー部】 |
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日本リーグ、Jリーグを通じて下部リーグを経験していない唯一のクラブ、
ジェフ・ユナイテッド市原。前身は言うまでもなく、日本サッカーリーグ(JSL)
で2度の優勝を誇る名門、古河電工サッカー部。
今でこそ、Jリーグ創設時の10クラブ中、タイトルを獲っていない3つの
クラブの一つとして数えられ、観客動員数では常に最下位を争うという
不名誉なイメージがついてしまっているが、チームの歴史は輝かしい栄光
に彩られている。
古河電気工業は、第一次大戦中の1920年に横浜電線製造と
古河鉱業が合併して誕生した会社。古河電工サッカー部は、第二次戦直後の1946年に創られた。
当時、日光にあった工場ではアイスホッケー、そして、もう1つの
主力工場があった横浜ではサッカーを「社技」として位置づけ、会社が
チームをバックアップしてきた。
JSL2度、天皇杯4度のタイトルを獲ってきた古河電工サッカー部の
黄金期は、大きく分けて3つ。
まず、第一期黄金期が58年に実業団選手権で2位となった頃から
65年まで。
それまで学生チームの優勝が多かった天皇杯で、60年、61年と
2年連続して優勝し、実業団優位の時代へ先鞭をつけた。
65年には八幡製鉄と同時優勝を果たして3度目の天皇杯を獲得。
また、実業団選手権においても、59年の初優勝以後、61、62年と
連覇を遂げている。
当時は日本代表でもあった川淵三郎、宮本征勝、鎌田光夫、
平木隆三、八重樫茂生ら、のちに日本サッカー界の重鎮となる面々が
在籍。
監督は、前日本サッカー協会会長でもあった長沼健が選手兼任で
務めていた。
長沼は61年、八重樫は63年の年間最優秀選手にも選ばれている。
65年のJSL創設を、豊富なタレントを揃えて迎えた古河。
JSL3年目となる67年には、2位まで躍進する。これはFW木村武夫
が得点王、川淵がアシスト王を獲る活躍を見せての好結果だった。
70年になると、日本初のプロ選手へ成長する奥寺康彦が加入。
この頃までは午前中は会社で働き、午後から練習という形だけなく、
練習自体も一日おきにしかできなかったという。しかし、それでは長丁場となるリーグ戦で好成績を残すことは難しい
ということで、毎日練習できる環境にする努力がチーム関係者によって
続けられた。
すると、そうした努力が実を結び、76年に念願のJSL初制覇。
この年は4度目となる天皇杯も手中にし、2冠を達成する。
DFには清雲栄純に荒井公三といった日の丸組。
MFには73年のJSLアシスト王、田辺暁男や元磐田監督で主将の
桑原隆がおり、FWにはベテラン川本治に永井良和、そして奥寺という
フレッシュな力が結合しての栄華だった。
当時人気のあったマンガ「赤き血のイレブン」のモデルとなった
永井は、この年の年間最優秀選手。その後も長く日本を代表するウイング・プレーヤーとして活躍し、
JSLでは通算3度のアシスト王を獲得している。
翌77年は、日本サッカー界にとって一大事件が起きる。
6月から長期に渡る欧州遠征を敢行した日本代表の一員だった
奥寺が、1FCケルンの名将ヘネス・バイスバイラーに見込まれ、正式な
獲得のオファーを受ける。
全く前例のない事態にチームを抱える会社はもちろん、サッカー協会も
驚愕を隠せず、行かせるべきかどうか数多くの議論がなされた。
結局、本人の決断と周りの後押しもあって、10月には日本人として
第一号となるプロサッカー選手が西ドイツの地で誕生した。
以後、奥寺は86年までの9年間に渡り、世界最高峰のリーグと
言われたブンデスリーガで活躍。ヘルタ・ベルリン、ベルダー・ブレーメン
を渡り歩き、「東洋のコンピューター」との異名を得るまでに評価を高めた。
一方、最大のタレントを送り出した古河は、瞬く間だった2度目の
黄金時代を終えると下降線を辿り、78年には初のリーグ最下位に転落。
本田技研との入替戦に勝って、何とか1部残留を決めるほどだった。
しかし、この結果が世代交代を押し進めることにもなり、どん底の状態
からもすぐに立ち直る。
81年には、吉田弘が14点を挙げてチームから2人目となる得点王に
輝くと、翌82年には鬼塚忠久がアシスト王を獲得するなど新しい駒が
成熟して来る。
そんな地道な熟成が実ったのが、85-86シーズン。
読売クラブ、日産自動車という新しい風が日本の主役となり始めた
時代に古河は復活した。
清雲監督のもと、助っ人の外国人選手もいないチームが非常に
統率の取れた姿に成長。
スイーパー岡田武史、ストッパー金子久という新旧の日本代表コンビが
中央を固め、日本代表の宮内聡が中盤での防波堤となって堅守を築く。
中盤ではベテランMF前田秀樹に、この年の新人王、越後和男が
チームの舵を取り、前線では16点を挙げて2度目の得点王に輝いた
吉田が大爆発した。
この勢いは西ドイツから帰国した奥寺を加えて、更に加速する。
第6回アジア・クラブ選手権に参加するため、年末の天皇杯を棄権して
サウジアラビアのリヤドに乗り込むと、アル・ヒラル(サウジ)、
アル・タラバ(イラク)、遼寧(中国)という強豪を次々と撃破。
3戦全勝で、日本のクラブとして初めてアジアの頂点に立ったのだった。
<86年 アジア・クラブ選手権 結果>
12月26日
古河電工 4(1-1/3-2)3 アル・ヒラル(サウジ)
得点:奥寺3(40、50、57分)、吉田(46分)
12月28日
古河電工 2(0-0/2-0)0 アル・タラバ(イラク)
得点:吉田2(66、86分)
12月30日
古河電工 1(1-0/0-0)0 遼寧(中国)
得点:吉田(13分)
古河電工時代のチームは、横浜駅近くの西平沼町に練習グラウンドを
持ち、選手もほとんどが横浜で暮らしていた。
社宅が三ツ沢競技場の隣にあったこともあってか、JSLの試合も多くが
三ッ沢で行われており、チームの生活拠点は横浜にあった。
当然、Jリーグの発足に際しても、古河は横浜をホームタウンとする
可能性が高かったのだが、たまたま主力工場が千葉に移転し、
練習場も浦安につくることになり、チームは引越し。
当初は習志野の秋津サッカー場をホームスタジアムにしようとするが、
周辺住民の反対にあって挫折。市原市の臨海競技場をホームとする案に変更を迫られたのだった。
また、今も活躍する多くのサッカー協会幹部を輩出してきた古河は、
サッカーというスポーツに深い理解を示してきた会社。
日本サッカー協会の副会長、小倉純二氏は「日本リーグの会議などに、
仕事途中でも抜けて行くのを許してくれた。企業メセナでしょうが、
(会社に)そういう意識はあった。」と語っている。氏のロンドン駐在時代には、会社の名刺だけでなく、日本サッカー協会
国際委員の名刺も持ち歩き、母国とのパイプを深めたという。
今は名誉会長の長沼氏も、本社の広報課に所属したままサッカー協会
専務理事の仕事をやっていた。古河電工の貢献なくして、今の日本サッカー界はなかったと言っても
過言ではないだろう。
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著者:らいてぃー
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