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2003/09/04掲載
ヘイゼルの悲劇
 
1985年5月29日。このシーズンの欧州チャンピオンズ・カップ決勝戦は、前年の覇者リバプールに世界最高のMFミシェル・プラティニを擁するイタリアのユベントスが挑むという夢の顔合わせが実現した。

ゴールデン・ブーツ賞のイアン・ラッシュにバロン・ドールのプラティニ。
欧州を代表する強豪同士の対戦は、同時に世界屈指のゴールゲッター
が激突するとあって、この上ない注目を集めていた。

決勝戦の会場となったのはベルギーの首都ブリュッセルにあるヘイゼル・スタジアム。前日から多くのサポーターが乗り込み、街中でも気勢を上げる双方の小競り合いはあったという。

まだ、チケット販売自体が厳格に行なわれていなかった時代。地元のベルギー人向けに売られたチケットが大量にダフ屋へと出回り、本来は緩衝地帯となるべき場所が、リバプールのサポーターを主として埋め尽くされた。立見席でのチケットは大量にさばかれていた上、偽造チケットも数多く出回っていたため、スタジアムの外では中に入ることを拒まれた人たちが押し問答を繰り返していた。

そんな状況下、敵対するサポーター同士が目の粗いフェンス1枚で仕切られ、リバプールとユベントスのサポーターと混在する一角をも生み出していた。スタンドの密度は膨れ上がり、ゴール裏の立ち見席は、両チームのサポーターで既に満杯の状態。

そうなると、当然のように些細なことから小競り合いも生まれて来る。
すし詰めの状況に苛立ったリバプール・サポーターが酔いにまかせて瓶や缶、爆竹などをユベントス側へ投げ入れ、多くの人間がフェンスに群がり揺らすなどの挑発行為を続けていた。

試合開始までは1時間ほど。更に人が増えたことで、窒息状態となったリバプール・サポーターは、幾分余裕の見えたユベントス側へ移動しようと
押し寄せる。

そんな中でも挑発し、いがみ合う双方のサポーター。両者の間には警官隊もいたのだが、その数は余りに少なく多勢に無勢。イングランド・サポーターの扱いにも慣れていないベルギーの警備員は、適切な措置を取ることもできずにいた。

そして、ついにフェンスが倒れる。
一気に両チームのサポーターが大量に混ざり合い、逃げ惑う人や暴れ出す人で揉み合いとなったスタンドは、完全なパニックに陥った。
リバプール・サポーターが雪崩込んできたために、ユベントスのサポーターは逃げようと下のトラックに押し寄せ、一気に将棋倒しとなる。

また、素早く逃げようとした多くの人が、横の煉瓦の壁によじ登ると、重みに耐えきれなかった古い壁は、無残に崩れていく。あっという間に多くの人が倒壊した壁の下敷きとなり、惨事は更に広がって行く。

すし詰めのスタンドから出ることができた者は、まだ幸い。多くの者が人の波に圧迫され、窒息。倒れたフェンスや崩れた壁の下敷きとなり、身動きのとれなくなった者は無数にのぼった。その混沌とした状況の中、両チームのサポーターがお互いにブロックの破片やフェンスまでもを投げ合い、暴動は全く収集のつかない状態になっていった。
信じられないことに、多くの人が逃げ惑うところへ発砲したり、火炎瓶を投げ込む者まで現れ、もはや戦場と変わりない光景がそこにあった。

フーリガン対策に協力を申し出た英国警察を突っぱねていたベルギー警察は、この一大カオスに打つ手もなく、事態の広がりを傍観するだけ。暴れる者を押さえるのに手がいっぱいとなり、助けを請う者たちを救出する余裕さえなくなっていた。

ついにはユベントスのガエタノ・シレア、リバプールのフィル・ニール。
両チームの主将も姿を現わし、必死に事態の収拾に努めようとしたが、
既に息絶えた人も多い地獄絵図の世界。興奮状態にある人々の耳には、彼らのスターが発する言葉さえまともに届くことはなかった。

続々と救急車が横付けされ、重傷者を運び出すと同時に、市内にある5つの病院から駆けつけた救護チームは、応急処置に奔走するが、暴動はなかなか静まらない。

死者のすぐ側でさえ、新たな犠牲者を生み出す行為を働く者が後を絶たない光景は、軍による戦闘が行われている現場と何ら変わりないものであった。

こうした惨状に試合中止も検討されたが、興奮したファンが街中で更に暴れることを危惧した主催者は、開始時間を遅らせながらも強引にキックオフさせることを決意。両チームへと伝えた。

試合強行の決定に戸惑いながらも、選手たちは事態を受け入れてピッチに立った。約1時間半ほど遅らせて始まった試合は、ユベントスがプラティニのPKによる1点を守り切り、初の欧州No.1の座に就いた。

チャンピオンズ・カップの獲得で、欧州3大タイトルを全て手にした初のクラブとなったユベントスにとっては、記念すべき日となるはずであった。
だが、試合中もトラックに横たわったままに、次の救急車の到着を待つファンがいる中で行われた試合。本当の歓喜が訪れる訳もなかった。

PKを誘ったボニエクも主将シレアも、そしてプラティニも、どこか虚ろな表情で念願のビッグイヤーを掲げていた。

結局、39人が尊い命を落とし、500人以上が重軽傷を負うという、サッカー場ではあり得ない戦地さながらの数字だけが残された。

犠牲者の多くはイタリア人。密集による圧死やフェンスや壁の崩壊によって命を絶たれた人が大半であったが、空から降って来る異常な物体に致命傷を負わされた者も多かった。中には友達を助けだそうとしている中、狂った暴漢に攻撃された人もいたという。

この事件の余波はあちこちに広がり、西ドイツでは放映権を持っていた
TV局が試合を強行したことに抗議して放映を中止。バチカンでは、ローマ法王が犠牲者を悼んで、すぐにミサを行なった。

死者39人のうち、25人がイタリア人だったこともあり、ローマの英国大使館では抗議のデモが繰り広げられ、英国系学校には火炎瓶が投げ込まれるなど、イングランドへの反発心は強さを増していった。

英サッチャー首相は、全ての遺族に政府から8,000万円の弔慰金を贈ることを決定し、スタジアムでのアルコール販売禁止や瓶・缶類の持ち込み禁止などを盛り込んだ再発防止の法律を即座に提出した。

FA(イングランド・サッカー協会)も、来季の全欧州カップ戦にイングランドのクラブは自主的に不参加としたことを発表したが、UEFA(欧州サッカー連盟)からは更に厳しい処分が待っていた。

イングランドのクラブは、3大欧州カップに無期限で出場停止。
更にリバプールに対しては、この制裁措置が解除された後でも3年間は欧州カップへの参加を認めないとの通達がなされた。

もちろん、処分はユベントス・サイドにも行なわれ、欧州カップでのホームゲーム開催権の剥奪や多額の罰金が、リバプールと同様に科せられた。

試合を開催したベルギーは、その後10年間に渡って欧州カップ決勝戦を開催する権利を失い、惨事の舞台となったヘイゼル・スタジアムは、国際試合での使用を永久に禁じられた。

当時の映像は、深夜のTV番組「11PM」でも詳細に取り上げられ、フーリガンの恐ろしさをうぶな日本人に知らしめてくれたが、リバプールのスミス会長が「事件の背後にナショナル・フロント(極右組織)がいる。」といった言葉も証明はされず、単なる酔っ払いの群集心理から生まれた
悲劇だったという説も根強く残っている。

ヘイゼルの悲劇を機に、各国ではスタジアムの安全基準や警備体制を
見直す動きが起こり、チケット管理についても力が注がれるようになった。

しかし、大きな犠牲を生み出したイングランド・サッカー界は、以後、暗黒の時代に突入。観客動員の大幅な減少や、チーム力の低下に歯止めをかけることができず、長い冬の時代を過ごすこととなった。

未曾有の犠牲者を出したヘイゼルの悲劇は、誰もが決して忘れてはいけない重過ぎる歴史なのである。

著者:らいてぃー 

 
 
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