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2004/01/06掲載
森保 一
 
90年代の日本サッカー界におけるシンデレラ・ボーイ、森保一が現役生活に別れを告げた。今オフ、昨年よりプレーしていた仙台から戦力外通告を受けたこともあり、現役続行を断念。35歳にしてスパイクを脱ぐこととなった。

余り知られていないようだが、森保の出生地は静岡県掛川市。
だが、幼稚園にも入らないうちから父親の転勤によって静岡を離れ、小学生となったときに長崎県へと移り住む。
そして、隣町でサッカーを教えていた先生が転任して来たのを契機に、友達と一緒に土井首少年団に入り、サッカーへと引き込まれて行く。

すぐに長崎県代表となり、よみうりランドで行われた全国大会にも出場したが、当時FWだった森保は怪我をしたGKの代わりにゴールマウスを守るという珍しい経験をする。結果は、1勝4敗でグループリーグ敗退。
もちろん、急造のGKにスポットが当たることもなかった。

ところが、学区内でそのまま進んだ深堀中学にはサッカー部がなく、とりあえずハンドボール部に入ったものの、すぐに退部。すると、周囲の配慮もあって近隣の土井首中学サッカー部でプレーすることを許され、翌年、深堀中学にもサッカー部ができると、チームの中心として活躍した。

高校は小嶺監督が率いる強豪国見を選ばず、長崎日大高に進む。
このため、圧倒的な強さを誇る国見の前に全国大会出場の夢は叶わず、2年生の時に国体で準優勝したことくらいが、全国レベルでの成績となった。

それでも、高校卒業後にはJSL2部に落ちたばかりだったマツダへ加入。1、2年目こそ出番を得られなかったが、3年目の1989年9月に待望のトップデビューを果たす。当時は、JSL2部にいた大阪ガスを相手にしたこの試合、森保はゴールを挙げる活躍を見せて、スタメンに定着して行く。1990年の春には、イングランドの名門マンチェスター・Uに短期留学して新たな刺激を受けると、完全にチームの軸として成長して行く。
翌90-91年シーズンには、2部ながらもチームトップの13ゴールを記録し、得点ランクの上位にも顔を出すようになった。

そして、最後の日本リーグとなった91-92年シーズン。ようやくJSL1部に登場し、トップリーグでのプレーを経験する。新人王を獲った高木やドイツ帰りの風間らの活躍もあって、昇格したばかりのマツダは、6位に入る健闘を見せた。とはいえ、地味な役回りだった森保に注目が集まることはなく、サッカーファンであっても知る人は少ない存在だった。

サッカーの強豪校を出た訳でもなく、各年代での代表にも選ばれたこと
のない森保。その地味なサッカー人生が、突然大きな変化を遂げたのは、1992年4月のことだった。日本初の外国人監督として、日本代表を率いることになったオランダ人、マリウス・ヨハン・オフト。
その船出となるキリン杯に向けてオフトが発表した代表候補リストの中に、一人の聞き慣れない名前があった。「森 保一(もり やすかず)?」ベテラン記者でさえ、どこのポジションをやっている選手なのか知らず、その名前さえ把握していなかった「森保一(もりやす はじめ」が名を連ねていた。

余りに意外な抜擢。当の本人も河内コーチから電話で知らされた際、思わず「冗談でしょう?」と言い、「本当の用件はなんですか?」聞き返したと言うのだから、その驚きようは解かるというもの。

キリン杯を直前に控えた5月の代表合宿。
ラモス、井原、柱谷哲といった常連の代表メンバーも森保がどんな選手なのか知らなかったが、忠実なサポートと、的確なポジショニングで次々とボールを拾って行く森保のプレーは、すぐさま高い評価を得る。
それでも、合宿中に発表された最終登録メンバーに残った森保は、「ビビって目が点になった。」と言う。

そして、世界の強豪アルゼンチンを初めて迎えた日本のスタメンには、森保の名前があった。いきなりの先発に動揺した森保は、クラブでの僚友、高木に励まされてピッチへと送り出された。試合はバティストゥータの一発によりアルゼンチンが貫禄勝ちしたが、試合後、アルゼンチンのバシーレ監督は印象に残った選手として森保の名前を真っ先に挙げた。

以後、オフト・ジャパンの申し子として、森保は代表に定着。
メディアの評価もうなぎ昇りとなり、一躍、シンデラ・ボーイとして脚光を浴びることとなった。しかも、ポジションを争っていた浅野(名古屋)が怪我をしたこともあり、中盤の底には、常に森保の名前があって普通となって行く。夏にはダイナスティ・カップの優勝に貢献し、日本に国際大会での初タイトルをもたらすと、秋のアジア・カップでも素晴らしいプレーを安定して披露。一気にアジアの頂点へ駆け上がる立役者として活躍した。

特に引き分けも許されなかったグループリーグ最終戦。イランを相手にした試合では、ことごとく敵の芽を摘みとり、豊富な運動量で黒子役を全う。カズと共に、瀕死のチームを蘇らせる原動力となった。以後も、準決勝まではチームのMVPと呼べるほどの働きを見せて、その存在感を日本中に知らしめる。かつては電光掲示板に「森 保一」と記された氏名を間違って読む者も、この頃には皆無となっていた。

翌年のW杯米国大会予選でも、ほぼ全試合にレギュラーとして出場。
あのドーハでの悪夢を体験する。最後のイラク戦では、パニックに陥った一人として戦犯に名指しする声も一部から聞こえてきたが、それまで何の代表歴もなく、強いチームでプレーして来た経験もほとんどなかった森保。日本の誰もが未経験だったゾーンで、精一杯戦った選手をスケープゴートに祭り上げることは、何の意味もないことだった。

日本に戻ると、その悔しさをバネに森保は更に成長を続ける。
森保に加え、高木、前川と3人のドーハ組を擁した広島は、バクスター監督の手腕もあって、瞬く間に力をつけて行く。風間、島らのベテラン選手は、柳本、片野坂、上村らの若手を牽引。ハシェック、盧廷潤、チェルニーといった実力派外国人とA代表の選手たちがチームの中核を成し、広島はJリーグ2年目の1994年に1stステージ優勝を果たす。
コンパクトなスタイルで流れるように組織的な攻撃を繰り返す広島のサッカーは、実に魅力的で迫力あるものだった。

残念ながら、チャンピオン・シップではヴェルディの軍門に下ったものの、広島の売りとした風間&森保のダブルボランチは、リーグ最高のペアという評価を得るまでになる。読みの良いポジショニングでセカンドボールを忠実に拾ってはつなぎ、相手に使われると嫌なスペースを素早く察知して埋めて行く能力は、完全に日本の第一人者であった。

だが、翌年のヤンセン監督就任以降は、リーグでの成績が伸び悩む。
1995、96年度と2年連続で天皇杯に準優勝したくらいが、目立った成績となり、1997年のオフには、経営状況の悪化から高木、路木らと共に森保も放出されてしまう。

但し、高木たちとは違い、森保は期限付きという条件で広島を離れた。
行き先は、オフトが監督に就任した京都。
自分を代表にまで引き上げた恩師のもとで再出発を図ったのだが、そのオフトは早々に辞任。後任の清水監督からも信頼を置かれ、森保は奮闘したものの、チームの成績は決して芳しいものとはならなかった。

そして、1999年には広島に復帰。優勝時からは大幅にメンバーも入れ替わったチームを引っ張る立場として、久し振りの上位進出に貢献する。しかし、新旧交代の流れと怪我も重なり、出番を減らしていったのもこの頃からで、3年ぶりに決勝まで進出した天皇杯でも元旦のピッチに森保の姿は見られなかった。

2000年は途中出場の試合が多くなり、更に16試合だけの出場に留まった2001年シーズンが終わると、若手の成長もあって戦力外通告を受ける。クラブからはフロント入りを打診されたものの、今度は京都時代のつながりから清水監督に請われ、J1に昇格したばかりの仙台へと移籍した。

初めて代表に選ばれた際は、井原正巳からも「モリホイチって誰?」と言わせたほどに無名だった選手は、チーム内外を問わず多くの選手、監督から大きな信頼を寄せられる選手となっていた。

そして、仙台では2年間に渡りプレーを続けたが、今季J2陥落の憂き目
に遭い、再度の戦力外通告を受けて引退を決意した。

広島、京都、仙台を通じてJリーグでは計293試合に出場。あと少しで300試合の大台に届くところだったが、日本リーグ時代の数字を加算すれば、そのラインもとっくにクリアされている。

日本代表としてのキャリアは、意外にも4年間とそれ程長くない。
1992年5月のアルゼンチン戦で初キャップを得てから、1996年2月の豪州キャンプに参加するまで国際Aマッチには通算35試合に出場。唯一となった代表でのゴールは、最後にメンバー入りしていた1996年2月の豪州遠征、オーストラリア戦で記録されている。

全くの無名選手からリーグを代表するMFとなった森保一。ニックネームの「ポイチ」は、森と保の間で姓名を切られることも珍しくなかった時代に付けられたもの。本人は、ポジショニングに優れたライカールトにグアルディオラの展開力を理想としていたが、今では広島の後輩、森崎和や松下らが森保を目標として、新たな時代を築くために頑張っている。

また、率先して声を出し、常に周囲への気配りを見せるその姿勢は、素晴らしいキャンプテンシーを持った選手として成長させ、岩本や久保、藤本といった多くのチームメイトからも大きな尊敬を集めていた。

「自分の持っているものを全て出し切る。」ことで多くの監督から厚い信頼を勝ち取り、サポーターのことを「自分にとって本当の財産だ。」とも語る人間性は、誰からも愛されるものであった。

座右の銘である「初心を忘るべからず」を胸に積み重ねたキャリアは、16年間という長きに渡った。代表での同期生だった北沢や大嶽も先に、現役を退いていたことを考えれば、この世代でトップのサッカー人生を歩んだと言ってもよいだろう。
栄光の数は手に余るほどという訳ではないが、森保以上にプレーする幸せを保ち続けた選手は、数えるほどしかいない。

若くして結婚した妻、由美子さんとの間には3人の子宝にも恵まれており、すでに中学生となった長男は、父親譲りの才能を発揮して仙台のセレクションを通ったという話も聞こえて来る。しばらくすれば、森保2世がJのピッチに立つ日が見られるのかもしれない。

1968年8月22日生まれ、173センチ68キロ。

著者:らいてぃー 

 
 
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