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| 2004/01/14掲載 |
| 【高校選手権が生んだスター(S53、54年度編)】 |
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(昭和53年度/1978年度)
この年、初めて茨城県に優勝旗を持ち帰ったのは、古河一。特に際立った選手はいなかったものの、堅守からの鋭いカウンターを武器に、泥臭いパワーを押し出したスタイルで頂点に立った。縦一本の攻撃に「槍の古河一」という異名が付けられた。決勝の対戦相手は、北海道勢として初の決勝戦を果たした室蘭大谷。それに準決勝まで進んだ八千代(千葉)、本郷(東京)も含めて、4強全てが初戴冠を目指す戦いであった。
前年度優勝の帝京は、優勝した長野国体にも大量の選手を送り込み、
絶対の本命と言われながらも、都の予選で敗退。そのため、優勝候補筆頭と言われていたのは、一昨年の準優勝チーム、静岡学園だった。
浦和南との歴史的な試合を演じた当時の1年生が最上級生となり、GK森下申一にDF八木祐二、杉山兄弟、FW成嶋徹と主要なメンバーが揃った布陣は、超高校級であった。その上、2年生にも、同時に日産へ進んだDF池田司信(のち日本女子代表監督)やMF三輪和幸。日立でプレーしたMF宮本行宏、住友金属に行ったFW杉山智(1年)といったタレントもおり、層の厚さは抜群だった。しかし、2回戦で古河一と当たり、0-0からPK戦で敗退。同時に水沼貴史や田中真二が残っていたもう一つの優勝候補、浦和南も準優勝した室蘭大谷にまさかの敗戦を喫した。
得点王は、3位となった八千代のMF高田敏(3年)。八千代は夏の総体でも準優勝と、年間を通して最も安定した力を発揮したチームであった。その八千代のエースだったのが、FW関塚隆(3年)。一浪を経験し、
早稲田大へ進学。卒業後は本田技研に加入した。1984年には、8ゴールを挙げてJSL新人王にも輝いている。その後、本田時代からの師、宮本征勝監督(故人)に連れられて鹿島へと移り、10年以上を過ごしてきたが、来季からは川崎フロンターレの監督に就任することが決まっている。
また、八千代に惜敗したものの、四中工も強力な中盤を持つ好チームであった。MF熊谷義一(3年)が本田技研、MF吉川亨(2年)は日立製作所へと進み、それぞれチームのレギュラーとして働いた。
この他、島原商からはFW小林伸二(3年)が優秀選手に選ばれている。監督として大分をJ1昇格に導き、2003年もJ1残留という至上命題を見事に果たしたことは、今のサッカーファンなら周知の通り。
(昭和54年度/1979年度)
古沼監督の指導を受けようと、全国から優秀な選手が集まって来るようになっていた帝京が、3度目の優勝を遂げた。一昨年度の優勝時にもレギュラーを務めていたMF名取篤は、多くの女性ファンから圧倒的な人気を誇り、先輩の早稲田(現日章学園監督)をしのぐ完全なスターとなっていた。FW川添孝一(3年)は5得点を挙げて得点王となり、決勝戦で韮崎を4-0と圧倒。過去最高の5万人の観衆が詰め掛けた中、タイムアップのホイッスルと同時に多くの小学生を中心とした群集がスタンドから飛び降りて騒然となったことも語り種となっている。
帝京は、下級生にもMF辻谷浩幸(2年、のち三菱)、DF栗原美典(2年、
のち日立)、MF辻石浩二(1年、のちフジタ)といったようなその後JSLのチームに進むタレントが豊富に揃っており、黄金時代に突入していたことを実感させる優勝であった。
その後、名取は三菱に加入。いきなり新人王となる活躍を見せて、大きな期待に応えたが、その後は伸び悩む。1980年代後半に入ってから、ようやく日本代表にまで昇りつめた。主軸だったMF新井義一は、法政大、東芝でも活躍。川添も三菱に入り、現在は解説者として活動している。
初めて決勝まで駒を進めた山梨の韮崎は、この年から5年連続ベスト4進出という快挙を果たすこととなり、横森監督も全国屈指の名将として広く名前を知られるようになる。この年のチームは、明治大、フジタでも活躍したGK横川泉、ヤマハに進んだDF矢崎弘志(3年)を軸に、粘り強い試合を重ねて勝ち進んだが、多くの才能が入って来るのは、この後からが中心となる。
ベスト4に入った愛知には、DF池内豊(3年)、FW永富浩(1年)という後のJSLを彩るタレントがおり、日産で活躍したMF境田雅章を軸にベスト8まで進んだ前年を上回る好成績を残した。池内は高校卒業後フジタへ進み、80年代前半は日本代表のSBとしても活躍。メキシコW杯予選などに出場している。永富は三菱重工へ進み、柔軟なボールコントロールを武器にして主軸に成長。1987-88年シーズンには、JSLのアシスト王に輝いている。
意外だったのが、6年ぶりの出場となった藤枝東の1回戦敗退。
過去4度の優勝を誇る静岡の名門は、GK菅藤昭好(2年)やDF倉田安治(2年)と守備陣にタレントを揃えていただけに、上位進出は堅いと見られていた中、宮崎工の前に完敗して姿を消した。のちに菅藤(現姓大橋)は、ヤマハが天皇杯で初優勝を果たすのに貢献。名古屋、柏、本田技研と渡り歩き、本田では監督も務めている。また、倉田安治は筑波大へ進んだ後、本田技研へ入社。日本代表にも入り5キャップを獲得している。本田がプロ化を断念した後は読売クラブへ移籍した。
大会優秀選手に選ばれた中には、栃木・今市のMF湯田一弘(2年)や島原商のDF勝矢寿延(3年)といった名前も見える。湯田は順天堂大学のエースとして活躍した後、
読売クラブでプレー。1986年度の天皇杯決勝戦では、日本鋼管を相手に決勝ゴールを決めるなど多くのタイトル獲得に貢献した。
そして、勝矢は大商大卒業後、本田技研へ入社。1985年のメキシコW杯予選で初めてフル代表入りすると、ドーハの悲劇を体験するまで8年に渡り日の丸を背負った。本田技研がプロ入りを断念すると、日産(横浜M)へ移り、磐田、セ大阪でもプレー。現在は、セ大阪のフロント入りしている。
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著者:らいてぃー
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