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(S55、56年度編)
         
 
2004/01/15掲載
高校選手権が生んだスター(S55、56年度編)
 
(昭和55年度/1980年度)
得意の槍に磨きをかけた茨城の古河一が、2度目の優勝を果たした。
当時では珍しい2トップを採用。2年前の優勝時にも大会優秀選手に選ばれたMF増田淳人(3年)を司令塔に、4ゴールを挙げて得点王となったFW大野克人(3年)らを走らせ、少ない手数で相手をしとめる戦術は、完成の域に達していた。6万以上の観衆を飲み込んだ決勝戦でも、技巧派の選手を多く並べた清水東を見事に寄り切り、前回の優勝が決してフロックではないことを証明して見せた。エース大野は、のちにJSL2部の富士通へ進んでいる。

決勝で敗れたものの、清水東には大型CF澤入重雄(3年)にMF望月達也(3年)、MF反町康治(3年)と数多くの才能溢れる選手が揃っており、非常に魅力あるチームだった。夏のインターハイも制しており、夏冬2冠も決して難しいことではないと思われていただけに、下馬評を覆されたと言ってもよいだろう。エース望月は、この敗戦を機にオランダへ渡ることを決意。ハーレム、テルスターでプロ契約を勝ちとり、日本へ戻ってからはヤマハに加わった。また、澤入は法政大、トヨタと進み、名古屋でJリーグ開幕を迎えている。

そして、現在新潟の監督を務めている反町は、昨季チームを悲願のJ1昇格へと導いたことが記憶に新しい。慶應大学から進んだ全日空では、社員選手としてプレーし、日本代表にも選ばれている。横浜F初の天皇杯優勝にも貢献し、選手生活の最後は、平塚でプロとして働いた。

また、清水東は下級生にも優秀な選手を揃えており、当時は1年生だったGK膳亀信行、DF浄見哲士、梅田和男といった選手たちが軸となる2年後に雪辱の機会が巡って来る。

連覇を狙った帝京は、中盤に辻谷浩幸(3年、のち三菱)、辻石浩二(2年、のちフジタ)、守備陣にも栗原美典(3年、のち日立)、石井克己(3年、のち東芝)といった主力が残った。この布陣に1年生ストライカー谷中治も現れたことで、期待も大きかったが、準々決勝では清水東に質の差を見せつけられてしまった。

前年の愛知に続き、ベスト4の座を守ったのが、同県代表の岡崎城西。
MF森嶋修(3年)、DF森島勉(3年、のち住友金属)の双子が主軸となり、DF田村恵久男(3年)を含めた堅い守備で勝ち上がった。優秀選手にも選ばれた3人は、揃って愛知学院大へ進み、のちの代表GK松永成立らと共に一時代を築いている。

そして、前年準優勝の韮崎は、FW大柴剛(2年)、保坂孝(1年)と前線に若いタレントを擁し、今後に期待を抱かせるチームであった。

他の話題を探すと、何と言っても西目農のFW小松晃。一回戦の北陽戦
でハーフウェー・ラインから50メートルのロングシュートを決めて、観衆の度肝を抜いたことは、今も語り種となっている。この活躍から、ヤンマーの釜本監督が直々に獲得に動いたことでも、小松は更に注目を集めることとなった。

あとは、学校創立2年目で全国大会初出場を決め、ベスト8にまで進んだ千葉の八千代松陰も、新風を吹き込んだチームと言えるだろう。

早期敗退したチームから主な選手を拾うと、遠野のMF及川浩二(3年)は、国士館大を経てNKKでプレー。JSLカップ獲得など、NKKが1980年代後期に強かった時代の主役となった。遠野と共に2回戦で姿を消したが、鹿児島実のFW三島俊孝(3年)は、法政大、全日空と進み、Jリーグ開幕を機としてスカウトに転向している。

最後に、歴代最少得点での得点王には、古河一の大野克人と共に、浦和南のMF安藤達矢(3年)と御影工のMF湊邦三(3年)が並んで輝いた。浦和南は3試合、御影工に至っては、2試合しかしていない中での結果であったが、御影工のトップには永島昭浩(1年、のちガ大阪等)というタレントがいたことも付け加えておかねばあるまい。

ちなみに、この年から来場者に前年度の大会の写真を使ったハガキが配られて、多くの小中学生が身近なヒーローを手にとって感じた他、ザ・バースよる「ふり向くな君は美しい」の歌に合わせたダンスの披露が準決勝や決勝戦のハーフタイムに行われるようになっていた。

(昭和56年度/1981年度)
第60回目を迎えたことを記念し、全都道府県からの代表校が参加することの出来た初めての大会。出場校を増やしたことにより試合数も増加。大会の観客動員は、遂に延べ30万人を突破した。

日体大卒業後に赴任した若き指揮官、大山照人監督の下でメキメキと力をつけていた武南が、2度目の出場にして全国の頂点に立った。浦和南、浦和西、市立浦和などの浦和勢が支配していた埼玉県に風穴を開け、一気に新たな時代が来たことを告げる新興勢力の台頭だった。

素晴らしいゴールを決めて一躍ヒーローとなったエースの柴崎薫に、池田直人、堀口伸男。3人のFWが揃って優秀選手に選ばれたように、武南は前線のスキルの高さが際立ち、それを操るMF星野晋吾(3年)も高い戦術眼を誇る選手であった。後ろも、住友金属に進んだGK佐藤和正(3年)を軸に安定した力を発揮。今度こそ優勝かと思われた山梨の韮崎を、見事な試合運びで下している。

司令塔であった星野は、日本大学から主に2部で暮らしていた時期の日立製作所に入り、柏がJリーグ昇格を決めるまで在籍。しかし、引退後に訪れた新婚旅行先で海難事故に遭い、若くして帰らぬ人となっている。

優勝候補の一角に挙げられていた韮崎は、戦前の旧制中学時代を含めて4度目の準優勝に終わったが、その陣容は実に豪華だった。核となっていたのは、MF小林慎二(3年)にFW大柴剛(3年)。3年連続で優秀選手に選出された大柴は、すでに高校サッカー界のスターであり、普段の練習にも大柴を目当てに見学者が来るほど。童顔ながらも、プレーには落ち着きがあり、チームがゴールを奪うために色々なアイディアを出せる選手だった。また、剛の保坂孝、柔の羽中田昌と呼ばれ、対照的な武器を持っていた2人の2年生アタッカーも傑出した才能を持ち、将来を嘱望されていた。

小林は明治大学卒業後、地元に戻って甲府クラブに加入。長くチームの顔として活躍したが、Jリーグ創設を機に横浜Fへ移籍している。甲府クラブには、DFリーダー興石太も入り、韮崎OBを軸にJSL2部で奮闘した。エース大柴は本田技研へ進んだが、JSL1部ではなかなかゴールを挙げられず、1985年に多くの同窓生がいる甲府クラブに移っている。

3度目の出場で、再び準決勝まで上がってきた清水商には、DF佐野達、MF後藤義一といった今もJクラブの名鑑に名前が載る選手がいた。佐野は法政大学から日産(横浜M)、京都とチームを変え、現在は京都のコーチに収まっている。後藤は中央大学卒業後、市原、札幌、横浜FCとクラブを渡り歩き、2003年はJリーグの現役最年長選手としてプレーしていたが、今オフ、40歳にして、現役を退いている。
同期の選手たちより、10年以上も長く第一線でプレーし続けた気力と体力には、素直に頭が下がる思いがする。

得点王となったのは、帝京の2年生FW谷中治(のち、フジタ、PJM)。
5ゴールを挙げての栄冠であったが、何故か大会優秀選手から漏れるという不思議な結果となった。帝京は序盤の3試合で24得点という爆発力を見せ、圧倒的な優勝候補と目されたが、韮崎の前に自慢の攻撃陣が沈黙した。2年前の優勝メンバーでフジタへ進んだMF辻石浩二(3年)に、本田技研の主軸となったMF矢藤敏則(2年)が形成した中盤が、高い支配力を持ってはいたものの、前線のタレントの数で負けていない韮崎を封じ込めることは出来なかった。

他に1、2回戦で消えた学校の中にも、目立った選手は多かった。
韮崎に2-3と惜敗した鹿児島商には、福岡大学から全日空へ進んだMFの牧内辰也(3年)。新潟工には、神田三兄弟の長兄でGK神田昭夫(3年)がいた。神田は、東農大を経て日立へ進み、ルーキーイヤーからポジションをつかむ活躍を見せた。2年生のMF古俣健次も、大商大を経てヤマハに行き、JSLで先輩神田の守るゴールを狙った。

そして、京都商業にはMF柱谷哲二(2年)。御影工にはFW永島昭浩(2年)というビッグネームも、この記念大会に出場している。柱谷哲は、説明するまでもなく、90年代の日本を代表する選手の一人。兄、幸一と同じく国士館大学を卒業後、日産に加入。1989年のイタリアW杯予選前からフル代表入りし、ドーハの悲劇を主将として体験した。日本サッカー界の中で、ライバルと言われるチームへ移籍した走りとなった選手でもあり、V川崎の黄金期を支え、数々のタイトル獲得に貢献。
引退後は指導者となり、2002年は札幌の監督。2003年は代表時代の師、オフトの下でコーチとなり、浦和のナビスコ杯制覇に一役買った。

永島は松下電器に加入後、チーム史上初にして今も唯一のタイトルとなる天皇杯を獲得。その当時から主将を務め、J発足後のガンバの代名詞的存在として、またエース・ストライカーとして絶大な人気を誇った。
横山政権下の日本代表としてもキャップ数を刻んでおり、清水でプレーした後、震災に見舞われた故郷に希望を与えるため、キャリアの晩年は地元神戸に帰ることを決断。神戸をJFLからJリーグに上げて、きちんと定着させるまで身を削った。現在は、TV解説者、キャスターとしてもお馴染みの存在となっている。

著者:らいてぃー 

 
 
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