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(S57、58年度編)
         
 
2004/01/19掲載
高校選手権が生んだスター(S57、58年度編)
 
(昭和57年度/1982年度)
前年の全都道府県から代表を出す方式から、以前と同じく32チームによる大会に戻した最後の年。清水東が悲願の初優勝を遂げ、初めてサッカーの町、清水へ優勝旗を持ち帰った。

2年前の決勝で涙を飲んだDF浄見哲士、DF梅田和男、GK膳亀信行という若き守備陣が最上級生に。 前線では、FW青島秀幸(3年)が8ゴールを挙げて得点王に輝き、ウインガー大石隆夫も鋭い突破力を見せて、敵を切り裂いて行った。更に、2年生にはFW長谷川健太、MF大榎克己、DF堀池巧と日本最高クラスの選手も揃い、攻守の穴のない布陣が完成。青島は決勝戦でハットトリックを達成し、5試合で17得点1失点という爆発力を誇ったチームは、高校レベルでのドリームチームとも言えるほどに整ったものであった。

主将浄見(のち筑波大)を始めとする3年生は、1、2年生のときに総体を連覇。最後の年は最も欲しかったタイトルを手にして、毎年全国制覇を経験するという黄金期を築いている。

後にGK膳亀は、順天堂大を卒業し母校へ赴任。監督として再び選手権に帰って来ることになる。FW大石は国士館大を経てヤマハへ進み、1995年に引退するまで磐田を離れることはなかった。

2年連続決勝で敗れた韮崎では、エース保坂孝(3年)が獅子奮迅の活躍を見せたものの、もう一人のエース羽中田昌が、病気のために医者からわずかな時間のプレーしか許されない状態にあったのが響いた。
前年度の大会では、羽中田の滑らかで高速のドリブルが多くの人に衝撃を与えたが、病には勝てず。韮崎自慢の2枚看板が、フル稼動することなく大会を終えた。保坂は筑波大学から東芝へ進み、甲府のコーチに就任。羽中田は浪人中に交通事故に遭って車椅子の生活となり、選手生命を絶たれてしまった。公務員生活をしていたが、後にバルセロナで指導者としての勉強を始め、日本に帰ってからは著述業等でも活躍している。

また、完璧な勝ち上がりで栄冠をつかんだ清水東を最も苦しめたのが、夏の高校総体優勝チーム、帝京。昨年の選手権、夏の総体と2大会続けての得点王となったFW谷中治は、凄みを増していたが、準決勝では梅田の密着マークに苦しみ不発。矢藤敏則(3年)、平岡和徳(2年)といった高いスキルを持つ中盤も分断されてしまい、カウンター主体の攻撃とならざるを得なかった。谷中はフジタへ進み、2年後には日本代表入りも果たした。その後、PJMへ移籍し90年代半ばまで現役でプレーした。矢藤は東海大学で数々のタイトルを獲った後、本田技研へ進む。勝矢、北沢、黒崎といった代表選手と共に、最も強かった時代の軸として活躍した。

そして、帝京と同じく3位に入ったのが滋賀の守山。京都、滋賀から1校
しか出られない中、総体準優勝でMF柱谷哲を擁する京都商業を倒しての出場だった。MF望月聡(3年)を核に、CF柳洪基(3年)やDF美濃部直彦(2年)などタレントでは引けをとらず、大型の選手を並べて西日本No.1の陣容と言われていたが、韮崎とのPK戦の末、涙を飲むことになった。

美濃部は松下に入り、そのままガ大阪でプレー。最後は京都へ移籍した。そして、望月は大商大からNKKに加入。一時は日本代表にも入る活躍を見せた後、NKKの廃部に伴い浦和へ移る。更には、美濃部が先に行っていた京都で一緒に戦い、現役生活を終えている。

他には、5年ぶりの出場で準々決勝まで進んだ古豪の習志野(千葉)は、清水東には完敗したものの、FW藤川久孝(3年)にDF大野俊三(3年)という傑出した選手を抱えていた。藤川は、法政大からトヨタ(名古屋)へ進み、晩年は地元千葉の市原へ移籍。但し、ポジションはいつの間にかDFに移していた。また、大野はJSL2部の住友金属に加入。鹿島でJリーグ初代王者に輝く原動力として活躍すると、日本代表にも抜擢されてドーハの悲劇を経験する一員となる。J初年度のベストイレブンにも選出された。1996年に1シーズンだけ京都でプレーして引退。現在は、鹿島で飲食店を経営している。

地元大宮サッカー場で行われた準々決勝の帝京戦では、敗れはしたが1万7,000人もの観衆を集めた浦和南。この埼玉の名門には、先のUAEワールドユースでも指揮を執ったU20代表監督、大熊清(3年)がDFとして出場していた。現在、議員バッジをつける田口禎則(3年)は、FWでの登録。後に全日空、浦和で活躍したことは周知の通り。代表キャプも持ち、今は浦和レイナスの監督としても知られている。

ちなみに、この年の選手宣誓は兵庫、御影高の主将、MF和田昌裕(3年)。順天堂大から松下入りし、ガ大阪と地元神戸でプレー。今は神戸のコーチとなっている。

(昭和58年度/1983年度)
2年前の大会が活況を呈したことを受け、この年から全都道府県の48代表校によるトーナメントが制度化された大会。焦点は長谷川、大榎、堀池の三羽烏を残した清水東が連覇を達成するのかにあった。

決勝まで進んできたのは、昨年の雪辱に燃える帝京。横綱対決となった決勝戦には6万を越える大観衆が詰め掛け、近年希に見る盛り上がりを見せた戦いとなった。そして、この決戦を制したのは帝京。主将で司令塔の平岡和徳(3年)から出されたロングパスをFW前田治(3年)が見事なボレーで叩き込み、ワンチャンスをものにした。

帝京は昨年度のメンバーから平岡の他にも広瀬治、金子智昭(共に3年)と中盤に多くの選手を残し、前後にも鋤柄昌宏や岩井厚裕といった才能豊かな2年生を揃えていた。

広瀬は、卒業後大学へ進まず三菱重工に入社。長くチームの顔となって活躍し、2000年のJ2でもプレーしてからスパイクを脱いでいる。
小野伸二が入ってきた時に、自ら8番を譲り渡すことを申し出たという話もよく知られたところ。

前田は東海大学を自らの活躍で強豪に仕立て上げた後、全日空へ。
初期のフリューゲルスが躍進する原動力となり、天皇杯などを獲得した。日本代表でも、14試合に出場して6得点を挙げている。筑波大学でも主将を務めた平岡は、日本リーグからの誘いを断り、郷里の熊本に戻って教職を選択。今では大津高校の監督として何人ものJリーガーを送り出す立場となり、帝京の先輩、早稲田一男(宮崎・日章学園監督)と共に古沼門下生同士で九州のレベルアップに尽力している。

決勝で敗れはしたが、個々の才能では間違いなく頂点にいた清水東は、三羽烏の他に浜松の丸塚中学から越境入学して来た1年生FW武田修宏をも擁していた。

武田は全国大会で5ゴールを挙げて得点王になっただけではなく、県大会では新記録となる13ゴールを決めてMVPにも輝いたほどの逸材。期待に違わぬゴールへのセンスを見せて、大物ぶりを発揮した。のちにV川崎の黄金期を担い、日本代表でのデビュー戦でもゴールを挙げていることは言わずもがな。

同じ学年の同じチームに、この3人が揃ったこと自体が奇跡とまで言われた長谷川健太、大榎克己、堀池巧(3年)については、今更説明不要。個々に経歴だけを振り返ると、長谷川が筑波大から日産、清水。
大榎が早稲田大からヤマハ、清水。堀池が順天堂大学から読売クラブ、清水、セ大阪、清水と、Jリーグ創設を機に3人が故郷に帰ることで、清水にもたらした有形無形の貢献度は、図り知れないものがあった。いずれの選手もA代表にまで昇り詰め、離れてプレーしていた時代にも各々が栄光を掴んでいるというのは、本当に彼らが偉大な選手であったことを示している。意外なのは、代表でのキャリアが圧倒的に豊富だった長谷川、堀池が先に引退し、怪我の多かった大榎だけが天皇杯優勝の2002年元旦までピッチに立っていたことくらいだろうか。

この年の3位は、韮崎と四日市中央工。韮崎は、この年で5年連続ベスト4という戦後初の大記録を樹立。保坂、羽中田という看板は抜けたが、ユース代表のDF山本健二(3年)を軸に堅守で勝ち上がった。山本は駒沢大学から古河へ加入。一年だけNTT関東に籍を移したが、市原で現役を終えた。今年度の高校選手権では、成立高校を率いて東京都の代表として初めて全国大会に姿を現した。

また、総体覇者の四日市中央工にも多くのタレントが見受けられた。
チームのコントロールタワーだったのは、MF越後和男。古河時代にはA代表での司令塔も任され、市原から仙台とチームを変わっても、絶大な信頼を集め続けた。現在は、仙台のコーチとなっている。FW江川重光(3年)は、本田技研から名古屋、神戸と渡り歩き、息長くプレー。FW平野直樹(3年)も、順天堂大で堀池らと黄金期をつくった後、松下へ入った。

早めに消えた中には、遠野のDF五十嵐和也(3年、のち市原、横河)や
GK菊地新吉(1年)らもいた。菊池は読売クラブへ進むと、すぐにポジションを掴み、JSLに2度目のGK特別新人賞を贈らせる活躍を見せ、長く読売、V川崎の守護神として君臨した。

他にも、暁星のMF矢野真光(3年)や室蘭大谷のMF大須田亮浩などが注目されていたし、初出場の神奈川・鎌倉には、のちに東芝や浦和、湘南でプレーするW堀孝史(1年)といった顔も見えたが、清水東の存在感が余りにも大きかった大会であったことは間違い無い。

セブンティーンなどの女子中高生を対象にした雑誌でも、大きく誌面に取り上げられ、清水東の三羽烏や武田などは、練習後も普通に正門から帰れないほど多くのファンが毎日訪れていた。ファンレターはダンボール箱が一杯になるほど届き、学校への郵便物より主力選手への個人的な手紙の方が多く運ばれていたと言うのだから、その熱狂度は推して知るべしというもの。

この頃には、大会明けの1月中旬から始まる大会優秀選手による合宿において、見学者に対する規制がかけられることも珍しくなくなった。

著者:らいてぃー 

 
 
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