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| 2004/01/20掲載 |
| 【タイ代表とピーター・ウィズ】 |
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先日、今年7月に行われるアジアカップ中国大会の組み合わせ抽選会が行われ、日本はオマーン、イラン、タイという比較的タフな相手が揃うグループに振り分けられた。
オーマンとはW杯予選でも対戦することで、情報の収集が始まっており、手の内を探り合う間柄。イランは、2002年のW杯出場こそ逃したが、その実力は確実にアジアのトップクラス。高原のチームメイト、マハダビキアやキャリミといった選手たちがチームを引っ張る立場となり、世代交代も進んで来ている。もちろん、国民的英雄アリ・ダエイも、まだ代表から退いた訳ではない。
そして、このグループで最も力が落ちるとみられているのがタイ。昨年9月には、近年のタイ躍進に尽力してきたピーター・ウィズ監督が五輪最終予選に進めなかったことから解任され、90年代半ばにもタイを率いていたブラジル人、カルロス・ロベルト・カルバーリョが戻っている。
とはいえ、ピーター・ウィズ監督が作り上げたタイは、決して東南アジアだけの大会に勝って満足するようなチームではなくなっている。
イングランドからやって来たピーター・ウィズがタイ代表の監督に就任したのは、1998年。昨年までの5年間で、タイは2度のタイガーカップとシーゲームスに優勝し、1998年のアジア大会ではベスト4にも入っている。また、2001年には日韓を目指し、史上初めてW杯の最終予選まで進んだことも忘れてはならない。
こうした目覚しいタイの躍進は、どうやって成し遂げられたのか。そのポイントとして、ウィズはメンタル面での変革を挙げている。「タイの選手は自分たちの力を信じることが出来ていなかった。だから、勝利のことを考えないままピッチに出て行っていたのだが、今は違う。着実に精神面での向上が図れている。」
とはいえ、日韓W杯の予選では、ホームで強敵イランとスコアレスドロー
に持ち込む健闘を見せたかと思うと、アウェーのイラク戦では0-4で負ける
という不安定さも見せてしまった。
ただ、こうした点については、タイサッカー協会の財力が十分でないこと
にも起因していると言えよう。ウィズは「イラクへの移動に時間が掛かった上、到着が前日だったことでコンディションが非常に悪かった。」と嘆いていた。
それでも、昔からホームとアウェーで見せる顔に大きな違いがあるのも、また確かなところ。実際、「イランには勝てるはずだった。バンコクでのパフォーマンスは、とても素晴らしいものだったから。」とウィズも語っているようにホームでの強さは、代表でもクラブレベルでも特筆すべきものがある。
解任の引き鉄となった五輪予選でも、UAEをホームに迎えた第2戦は1-1の引き分け。アウェーの第1戦で、1-4という大敗を喫していなければ、モチベーションもかなり高く維持出来たのではないだろうか。
一昨年、タイガーカップのタイトル防衛に成功したことで、ウィズ監督は2004年の1月まで契約を延長したばかりだったのだが、月額1万4,500ドルにもなった報酬を払い続けるのが難しくなったことで、解任のチャンスを伺っていたのではないかという説もまことしやかに流れている。
選手たちからの人望も厚く、その指導に心酔していた関係者も多かったとも言われているだけに、タイが再び停滞期に入ってしまうのではないかと危惧する声も少なくないようだ。
だが、そんな現在のタイ代表をつくった男、ピーター・ウィズも、日本ではそれ程知られている訳ではない。古くからのサッカーファンになら、アストン・ヴィラがトヨタカップに来た時のエースCFと言った方が分かり易いだろうか。
188センチ76キロという体躯を活かした典型的なイングランド・スタイルのセンターフォワードで、強靭なバネから繰り出されるヘディングは、絶大な威力を秘めていた。イングランド代表としても、1982年のW杯スペイン大会に参加。出場機会こそ得られなかったが、当時のイングランドで最も著名なストライカーの一人だった。
1951年8月30日、リバプールの出身。若いうちは、国内で最も活気ある
その港町で朝から晩まで働く毎日だったが、サウスポートの監督に誘われてサッカー界に足を踏み入れる。だが、3ヶ月もすると監督が代わったことで移籍を強いられ、更にはプレーの場を求めて南アフリカまで飛び立って行く。
南アフリカでも2つのクラブでプレーした後、当時のスター、デレク・ダガンの誘いに応じてウルブスのテストを受けてイングランドへ戻るが、すぐにNASL(北米サッカーリーグ)のポートランドへ旅立つ。
ポートランドでは、チームのプレーオフ進出などに貢献した後、再び故国へ帰り、ノッティンガム・フォレストに加入する。すると、1976-77年シーズンには2部にいたノッティンガムがウィズのゴールにより1部への昇格を決めると、1977-78年シーズンには昇格したばかりのチームが1部リーグを制覇。更には、リーグ・カップまでも獲得し、2冠を達成してしまう。この活躍に目をつけたのが2部のニューカッスル・U。£25万もの大金をはたき、ウィズを手に入れた。
だが、ここでもウィズは腰を据えることなく、1980-81年シーズンには、ニューカッスルが出した倍額の移籍金£50万で今度はアストン・ヴィラへ。移籍1年目のシーズンであったものの、ウィズはすぐチームに馴染み、年間20ゴールを挙げて70年ぶりとなるリーグ優勝に貢献。瞬く間に
伝統あるヴィラ・パークのヒーローとなってしまう。
ようやく安住の地を見つけたウィズは、アストン・ヴィラで通算200試合以上に出場し、90得点を記録しているが、多くの人が覚えているのは、
何と言っても1982年の欧州チャンピオンズ・カップ決勝戦。バイエルン・ミュンヘンとの試合で、決勝ゴールを挙げた姿であろう。
アストン・ヴィラは、ウィズの一撃により忘れ去られた古豪から、欧州に
君臨するチャンピオンにまで昇り詰め、19世紀の栄光にしがみつく必要のない栄華を迎えることとなった。
現役引退後のウィズは、1991年にウインブルドンの監督を務めた経験も持ち、FAの指導員となる。その役職から、世紀の変わり目をタイで過ごすことになったのは、周知の通り。今は、ヴィラの欧州大陸担当スカウトとして働いている。
また、後任のカルバーリョ監督は、ガルフカップの開催地クウェートへ視察に行き、UAEとイエメンというW杯予選で当たる相手をチェックしていたと言う。これまでは、若くて才能ある選手が出て来ても、国際試合の度重なる敗戦が勝利への強い意欲を失わせてきたというタイにあって、そうした意識が薄くなっている現在の選手たちは、日本にとっても決して楽な相手とはならないだろう。
昨年のアジア・チャンピオンズ・リーグで、テロ・サーサナが決勝まで進んだように、今のタイの選手には、試合が始まる前から勝負を諦める気持ちなど存在しない。アジアカップで日本が戦う場所は、鹿児島よりも低い緯度に位置する内陸の都市、重慶(チョンチン)。昼間は異常なほどに暑く、夜は急激に冷えると言われている場所で、コンディションをうまく保つことが出来なかったら、どうなるのか。
オフトが率いるまでは、中国や北朝鮮にも負けるのが普通だった日本が、90年代に入ってから急激な成長を見せたのと同様に、ウィズ政権下で勝つ味を覚えてきたタイも、近年に強い上昇気流をつくってきた国。汲みし易しと舐めていれば、思わぬところで足をすくわれる可能性もあるのではないだろうか。
参考:ピーター・ウィズが所属したクラブ>
サウスポート〜バロー〜ポート・エリザベス(南ア)〜アルカディア・シェパーズ(南ア)〜ウルブス〜ポートランド・ティンバース(米)〜バーミンガム〜ノッティンガム〜ニューカッスル〜アストンヴィラ
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著者:らいてぃー
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