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2004/01/29掲載
イラクのサッカー
 
ドイツW杯一次予選を来月に控え、日本代表が宮崎の地で合宿に入っている。大事なオマーンとの緒戦を前に、手合わせするのがドーハ
での悪夢を呼び起こす相手、イラク。

とはいえ、今回のマッチメイクは、純粋にテストマッチとしての適格性を求めたというより、イラク復興支援事業の一つとして組まれた感が強い。かつてのイラクは、1986年のW杯メキシコ大会に出場したように、アジアの中でも有数の力を誇っていたが、1990年代に入ると湾岸戦争などの影響もあって、徐々にその力が低下。その地位は、周辺諸国と比較すると、大きな下降線を描いている。

サッカー協会の設立は、第二次大戦後まもない1948年。
2年後にはFIFAへ加盟し、国際舞台に登場して来る。

だが、イラク・サッカーに栄華の時が訪れるのには、1980年代まで待つ
必要があった。そして、その絶頂期ともいえる1980年代を迎えるに当たっては、明確な予兆が存在した。1959年から始まったアジア・ユースにおいて、イラクは1975、77、78年と3連覇を達成。まず、若年層での結果を出して行く。すると、1980年に多くの西側諸国がボイコットしたモスクワ五輪でベスト8に入る好成績を挙げて、アジア屈指の強豪として認知されるようになる。

1982年にはインドで行われたアジア大会に優勝し、初の国際タイトルを
獲得。1970年代のアジア・ユースで活躍した選手たちが順調に成長し、次の目標は、世界の舞台で結果を出すことに変わって行った。
1984年のロサンゼルス五輪にも連続出場を果たし、アジアの盟主という立場を確固たるものにしたイラクは、悲願のW杯出場を最大の目標と定める。

そこで、イラクが新たな代表監督して招いたのは、ジョルジ・ヴィエイラ。
サンパウロの名門コリンチャンスを率いて、この年の1月にはブラジル代表のMFソクラテスらと共に来日していた人物だった。

若いうちからアジアで勝つことを当然として来た選手たちに、ブラジルきってのビッグクラブで指揮を執っていた指揮官が加わったイラクは、W杯予選も順調に勝ち進む。

当時のイラクは、1980年から続く隣国イランとの戦争状態にあったため、「交戦状態にある国では試合を行なえない。」というFIFAの規定により、全ての試合を国外で戦うことになっていた。それでも、カタールやUAE、シリアといったライバルたちを退け、ホームゲームを一つも戦わずして、W杯への初出場を決めたのだった。

1986年のメキシコW杯本大会。イラクは地元メキシコにパラグアイ、ベルギーという比較的恵まれた組に振り分けられたが、アジアと世界の差は大きく、1勝も挙げられずに帰国の途についた。

それでも、パラグアイ戦では前半終了のホイッスルが吹かれた直後にネットを揺すったとして、セットプレーからの得点が認められずに惜敗。
メキシコ相手には、10万の大観衆を敵に回して0-1と健闘している。
また、ベルギー戦では、アル・ラシドでプレーする若きFWアーメド・ラディ
がイラクにとってのW杯初ゴールを決めたものの、退場者を出したこともあって、1-2で敗れ去った。

多くの国際舞台を踏んだ選手たちは、当然のように1988年のソウル五輪でも出場権を獲得。1980年代の五輪には、全て出場するという際立った成功を収める。1984、88年とガルフ・カップも連覇。1988年には久しぶりにアジア・ユースの王座も取り返し、イラクは常にアジアの頂点を伺うチームを作り続けた。クラブレベルでも、1989年にアル・ラシドがアジア・クラブ選手権で準優勝するなど質の高さを見せていた。

しかし、その流れが変わったのが、1991年のクウェート進攻による湾岸戦争の勃発。他国の領土を犯したイラクは、国際試合からの締め出しをくらい、1992-94年は国内リーグも休止に追い込まれた。

この影響は非常に甚大で、サッカーなどのスポーツだけでなく、文化や芸能の面でも孤立化を強いられ、全ての産業が衰退して行く。

そんな中、国際舞台への復帰が許されたイラクは、W杯米国大会出場を目指し、日本と同じく、ドーハに乗り込んできた。序盤の取りこぼしが響き、早々に出場権獲得は難しい状況となったが、見せていたサッカーは非常に洗練されたもので、評価は高かった。日本との最終戦では、一縷の望みを残した状態で戦い、我々日本国民を奈落の底に突き落としてくれたことを忘れ去ることは永遠にないだろう。

とはいえ、この1993年11月に現れたチームは、それまでの遺産によるもので、イラクにとって最後の栄光を知る者たちを集めたに過ぎなかったこの時もエースだったのは、メキシコ大会を経験していたアーメド・ラディ。他の選手たちも、ソウル五輪やガルフ・カップへの出場経験を持つ者がほとんどだった。

そして、それから3年後。1996年3月にマレーシアで行われたアトランタ五輪最終予選では、何とか一次予選を突破して来る。日本相手にはドローに持ち込み、UAEとオマーンをも撃破。準決勝と3位決定戦では韓国とサウジアラビアの前に敗れ去ったが、日本戦で同点弾を決めたMFアリ・シャニーンやFWカヒタン・ドラインなど才能豊かなタレントも育っていた。

この年は、アル・タラバもアジア・カップ・ウイナーズ・カップの決勝まで駒を進め、ある程度の復権を成し遂げたイラク・サッカー。それでも、サウジアラビアやイラン、そして日本や韓国といった国々が権勢を伸ばして急激に勢力図の変わったアジアにおいて、イラクは既に過去の強豪へと変わりつつあった。

サダム・フセイインの息子、ウダイ氏が会長を務めるサッカー協会は、強権的な圧政を敷き、選手たちに恐怖のプレッシャーをかけていく。自国の独裁者によって多くの選手生命が絶たれ、イラクの地盤沈下は更に進んだ。

かつては、イラク警察にアル・ラシド、アル・タラバ、アル・シャバブといったチームも高い実力を備えていたが、今となっては完全な昔話。昨年来の戦争により、政治体制も決まらず行方知れずとなった代表選手も数多いと言う。トップリーグだけでも16チームが鎬を削り、国内全土で行われていた活気ある試合は消え、今では細々と一部のクラブが活動しているに過ぎないとの話も伝え聞く。

度重なるブランクを作った上、継続的で十分な強化もままならない情勢下にある国土。その間に日本や韓国、サウジアラビア、それに宿敵イランまでもがW杯で勝利を挙げている。その胸中や如何なるものか。

今回の代表編成もきっと大変な作業であろうが、かつては10年以上に渡ってアジアのトップに君臨してきたイラク。優秀な若い芽を育て上げ、再び日本の強力なライバルとなる日も決して来ないとは言えないだろう。

W杯ドイツ大会の一次予選では、ウズベキスタン、パレスチナ、台湾という比較的力の差が少ないと思われる組に入った。最終予選でイラクと再び相対する可能性も少なくはない。

著者:らいてぃー 

 
 
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