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| 2004/02/12掲載 |
| 【黒崎久志】 |
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今オフも、多くの選手がスパイクを脱ぐ決意をした。そんな中、1989年のイタリアW杯予選を知る唯一の現役選手、大宮のFW黒崎久志も引退を決めた一人。
昨年末、所属する大宮から戦力外通告を受けていたことで、選手生活を終えることは確実視されていたが、先週、古巣鹿島のJrユース・コーチとして再出発することが発表された。
1968年5月8日、栃木県生まれの黒崎。粟野中時代から、県内ではよく
知られた存在であったが、全国的な知名度を持つようになったのは、高校時代から。宇都宮学園高2年時に全国高校選手権に出場。大型のユース代表MFとして、注目を浴びた。上級生には、のちに日産などで活躍したMF小泉淳嗣もおり、大柄で技術の高い選手を揃えた宇都宮学園は、大会屈指の好チームとして高い評価を受けることになった。
残念ながら、準決勝で優勝した清水商に惜敗したものの、黒崎自身は
5ゴールを挙げて大会得点王に輝いている。
当時の大柄な選手は、センターバックやセンターフォワードに起用されることが多かった。中盤には、小柄で運動量の豊富な選手が入ることが多く、大型の選手はどうしても技術的に劣る傾向が強い中、黒崎は傑出した例外であった。しっかりとした技術を備え、試合の決定権を全て握るほどの存在感を示したプレーの数々は、2年生にして超高校級とも言えるもの。長いリーチを活かしたボールキープは、ほとんど敵に奪われることなく、キック力を活かした長短のパスセンスにも非凡なものを感じさせた。
もちろん、ゴール前に上がれば瞬時に危険なストライカーへと変身し、上でも下でも簡単にゴールの枠を捕らえてしまう。恐らく、日本にもついに大型の司令塔が誕生する時代が来たのかと感じた人も多かったのではないか。
そして、最上級生となった翌年も選手権に帰ってきた黒崎。
ユース代表の主力としてスケールアップした大器は、昨年の雪辱を晴らすべく成長した姿を見せていた。
だが、宇都宮学園の前に立ちはだかったのが、財前恵一、野田知というセンス溢れるMFを擁していた北の雄、室蘭大谷。雪の残る千葉会場には、大会屈指のMFが激突する試合ということで、多くの観客が詰め掛けた。互いに1点ずつを取り合い、一歩も譲らぬ白熱した試合は、そのまま80分を終えてPK戦へ突入。両チームのイレブンが誰一人として失敗せずに進む緊迫した展開となり、決着がついたのは、何と15人目。宇都宮学園DF陣の要、根岸(2年)が蹴ったボールを室蘭大谷のGKが止めて、息を呑む熱戦に終止符が打たれた。
敗れたとはいえ、注目された財前との対決で、より存在感を見せたのは明らかに黒崎の方だった。非常に高い技術と戦術眼を見せつつ、豊富な運動量とリーダーシップをも発揮。ピッチに立っていた22人の中でも、群を抜く選手であることは、誰の目にも明らかであった。
そんな黒崎が卒業後の進路に選んだのは、進境著しいJSLの本田技研。すでに勝矢、倉田などの代表選手を生み出していた本田は、本格的にサッカー部の強化に着手し始めた時期に当たっていた。
同期には、東海大のMF矢藤に静岡学園の北村、そして黒崎のことをライバルと見なしていた修徳の北沢など、多くの有望選手を一気に揃え、悲願のリーグ制覇への足固めを敢行。
若い世代に才能ある選手を集めた本田技研は、世代交代を推し進めながらも着実に力を蓄えて行く。その中でも、黒崎は最も早く頭角を現し、1年目から試合に出て活躍。ポジションは中盤から前線に移し、その得点力と大柄な体躯を活かしたポストプレーで、チームにとって欠かせないピースとなる。すると、わずか2シーズンで主軸に成長した黒崎は、21歳の誕生日を迎える直前、1989年5月の韓国戦で日本代表にもデビュー。
同月に始まったイタリアW杯予選では全て途中からではあったが、6試合中5試合に出場。インドネシア戦では代表初ゴールも決めている。
こうした順風満帆のキャリアを歩む黒崎と符合するように、本田技研もチーム力を高めていた。1989-90年シーズンには、MFメシアスがアシスト王となってチーム初のタイトルホルダーになると、翌シーズンは北沢が得点王に輝き、過去最高の3位を記録。代表経験者も佐々木、北沢、石川と大幅に増えたチームは、正に昇り竜のごとく成長している最中であった。
しかし、そんな好成績に水を差すかのごとく、衝撃的な決定が耳に入る。「1993年よりスタートさせる日本初のプロサッカーリーグへの参加は、断念する。」と本社サイドより通達され、チームに動揺が走った。
この知らせを受け、勝矢、倉田、北沢らは移籍を決意。最後のJSLとなった1991-92年シーズンは、大幅に選手層が薄くなった中で黒崎たちは奮闘したが、前年の成績を上回ることなくアマチュアの時代を終了する。
それでも、シーズン当初に行われたコニカ・カップでは決勝戦まで駒を進め、初のタイトルまであと一歩と迫った本田技研。残念ながら、最後は延長戦でトヨタの前に力尽きたが、5-6という派手なシーソーゲームは、国立競技場に詰め掛けたファンを熱狂させた。
黒崎も2-3で折り返した後半に、目の覚めるようなヘディングシュートを
決めるなど、大活躍。MFドゥグラスを後半途中で失うことさえ無ければ、
本田技研に栄冠が渡っていたのではないかと思わせる試合だった。
そして、プロの時代へ。黒崎は、自らを本田技研へと引っ張って来た恩師、宮本征勝氏が鹿島の監督に就任することから、長谷川、本田、内藤、入井、千葉といった選手たちと共に移籍を決める。チーム力で大きく見劣りしていた住友金属に、本田技研の主力が大量に移ったことで、鹿島は一気に層の厚みを増していった。同時に、代表復帰を目指して飛躍を誓い、久志から比差支へと改名も行なった。
それまでは、午前中が会社の仕事。車体組み立ての部門に配属された黒崎は、工場で汗を流した後、午後から練習という生活だった。
それが鹿島でプロサッカー選手としての生活になり、環境も急変。
Jリーグ開幕を間近に控えて徐々にサッカーに注目度が上がって来た中、ジーコやサントスを手本に、プロとしての生活を徹底させて行く。
ジーコという世界的なスーパースターに率いられた鹿島は、瞬く間にJSL2部で戦っていた住友金属とはまるで違うチームへと変貌していった。1992年のナビスコカップでは、誰もが予想しなかったベスト4進出を果たして周囲を驚かせると、翌1993年に日本選抜チームが参加したカールズバーグ杯でも存在感を見せて、ついに日本代表へ復帰。
日本初のW杯出場を目指すオフト・ジャパンの一員となった。
とは言っても、代表への復帰が順調なキャリアを積むことにも直結しないという厳しさを噛み締めることになる。1993年初頭。Jリーグ開幕前の大事な時期は、米国W杯一次予選に挑む日本代表の活動と重なっていた。代表では高木の控えとして扱われ、試合出場もほとんどないままに過ごしてチームに帰ると、アルシンドと長谷川による2トップが完成されており、晴れの開幕戦をベンチで見守るだけに。代表選手でありながら、ピッチに立つことも出来ないという屈辱を味わう。
翌2節ではジーコの怪我もあって、初めてのJリーグ出場を果たしたが、長谷川とアルシンドのペアが基本として崩されることはなく、スタメンの座を奪えずにいた。
そんな悔しい思いを晴らしたのが、サントリーシリーズの第8節、ホームのカシマで行われた浦和戦。この試合における黒崎の活躍は、キャリアの中でもハイライトとも言えるものであった。
試合開始早々、浦和のFW福田に先制ゴールを許した鹿島。浦和の選手が大喜びで自陣に帰ってばかりのところを、黒崎が主審にリスタートの笛を要求。浦和の選手がほとんど自分のポジションに戻っていない中、あっという間に同点ゴールを決めてしまう。
あっけに取られる浦和の選手たち。一方、鹿島の選手は、涼しい顔をして当然といった表情を浮かべる。この得点には、大きな伏線があった。
前年のナビスコカップ準決勝。浦和戦と同様に、読売のゴール直後にジーコがキックオフからすぐに同点とするシュートを決めた。ところが、主審は再開の笛を吹いていないとしてこれをノーゴールと判定。
ジーコは必死に食い下がったが、認められることなく敗れ去った。
これを機として、ルール通りに8人以上の選手が自陣に戻っていれば、主審は再度のキックオフを行なっても問題ないことを、改めて確認済み
だったのである。
そんな情け容赦ないゴールにも黒崎は満足せず。前半のうちに、今度はミドルシュートを決めて逆転に成功。鹿島唯一の代表選手としてのプライドを傷つけられた男の咆哮が、ようやくピッチに響くこととなった。
続く第9節も眼下の敵であった広島を沈める決勝弾を叩き出し、鹿島の
首位固めに貢献。予想を大きく覆す鹿島の快進撃を、一気に加速させた。ステージ終盤にも、優勝を決めた浦和戦を含む4試合連続ゴールを
挙げた黒崎は、大きな存在感を見せつけて、栄光あるJリーグ初の戴冠者へと導いた。
そして、シーズン後半はドーハの悪夢をも体験し、チャンピオン・シップにも出場。翌年はファルカン監督からも代表に招集され、初めてフランスと対戦した際には、久し振りのスタメン復帰も果たした。
しかしながら、黒崎のフル代表でのキャリアにおいて最も印象的なのは、1995年のダイナスティカップをおいて他にないだろう。
加茂体制発足直後のインターコンチネンタル杯には呼ばれなかったが、翌月の豪州で代表に合流すると、香港では全4試合にスタメン出場し、4ゴール。日本が大会連覇を成し遂げる原動力となった。
特に、香港戦で見せたFKからの強烈なシュートは、ネットを突き破るかのような凄まじい破壊力を発揮。これ程パワフルなシュートを打てる選手が日本に存在したのかと思わせるくらいに衝撃的なゴールを決めて見せた。
日の丸を背負って十分過ぎる存在感を示した黒崎だが、その後も中山や福田とのレギュラー争いは厳しく、完全にポジションを確保するには至らず。しかも、1996年末は、UAEでのアジアカップを怪我で棒に振ると、翌年のタイ遠征で復帰しながらも再び怪我で離脱。肝心の仏W杯予選を、TVで眺めることになってしまった。
一方、鹿島では長谷川との「ツインタワー」はチームの看板となり、マジーニョをも加えた多彩なアタックは、多くの対戦相手に脅威を与えた。
距離を問わない力強いシュート力に、空中戦での抜群の強さは秀逸。
一段下がって組み立てに入る器用さも兼ね備えながら、鋭い足の振りでゴールマウスを強襲するセンスは、実に頼もしいものであった。
1996年のリーグ制覇時には、左足の怪我により終盤戦を欠場したが、黒崎が不在とならなければ、優勝を決めるのがもっと早かったのではないかとも言われた。
そして、こうした度重なる怪我は、自身のキャリアに大きな影響を与えて行く結果となる。1997年の前期は、ノーゴール。後期は、その鬱憤を晴らすかのように10ゴールを荒稼ぎしたが、またもや怪我に見舞われる。チャンピオンシップの頃には治っていたものの、ジョアン・カルロス監督からは、構想外のような扱いを受けてしまい、大事な試合で出場機会を得ることが出来なかった。
こうした経緯に加え、同時に京都の監督に内定していたオフトから声がかかったこともあり、ついに鹿島を離れることを決意する。
その1998年シーズン。自分を必要としたオフトは、早々にクラブ側との対立からいなくなるが、不動のレギュラーポジションを得た黒崎は大爆発。ホームでの札幌戦では、自身初のハットトリックを記録し、年13ゴールという過去最高の数字を残してJ1参入決定戦に回ることを回避。
2ndステージでは、チーム史上初の勝ち越しを決めるなど、京都が成長
を遂げる牽引役として働いた。
それでも、翌1999年にはカズの加入もあってベンチに回る日が多くなると、その後は神戸、新潟と1年ずつチームを変わり、2002年に大宮に移っていた。神戸に移籍した際には、名前を本来の「久志」に戻して初心を取り戻そうともしたが、かつてのような運動量や決定力が甦るには年齢という壁が厚くそびえ立ってしまう。バルデスとの新たなツインタワーが、大宮の新たな売りともなった時期もほんの僅か。結局、この2年間でのJ1昇格はならず。昨季は、バレーを軸としたチームにあって、ベンチから試合を見つめる時間が長くなっていた。これが選手生活を終える決心へと傾かせたのだろう。
J1では、通算202試合に出場して69得点。日本代表では26試合に出場し、5ゴールをマークしている。185センチ80キロという恵まれた身体を武器に、多彩な技術と日本人離れしたパワーをも兼備えていた選手ではあったものの、波が大きい感がしたのも確か。恐らく、試合毎、時期毎でのパフォーマンスがもっと安定していれば、チームや代表での存在感も更に増したのではないだろうか。
それでも、多くの怪我にも負けず、長い期間に渡って4人の監督から代表に呼ばれた資質は、実に高いものであった。ダイナミックなプレーの中にも瞬時の切れを感じさせ、若い時分から冷静沈着な選択が出来た選手。
第一線で活躍した16年もの間に、仲の良かった北沢や長谷川も先にピッチを去って行った。こうした引退試合やセレモニーをやった仲間たちと同等かそれ以上に日本サッカーを盛り上げた黒崎久志が、忘れ去られることはないだろう。
所属)宇都宮学園−本田技研−鹿島−京都−神戸−新潟−大宮
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著者:らいてぃー
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