Soccer Days > Reading > フットボールコラム > ズビグニェフ・ボニエク
         
 
2004/02/16掲載
ズビグニェフ・ボニエク
 
ストライカー出身のセンターバックというのは、よく聞く話。日本代表歴代最多のキャップ数を誇る井原正巳も、高校時代まではFWやMFとして活躍していた。

 だが、ずっとセンターバックだった選手が、プロ入りしてからFWに転身。
そして、大成功を収めてしまったスター選手など思い浮かぶだろうか。CBからCFへ。そんな珍しい経歴を持つスーパースターが、ポーランドのズビグニェフ・ボニエクである。

 ポーランドの最多キャップ数を保持しているのは、1974年のW杯西独大会で3位に導く原動力となったFWラトー。最多ゴールを記録しているのは、ラトーと同時代に生きたCFルバンスキーである。それでも、「ポーランド史上最高の選手は誰か?」と問われた際、今でも「ボニエク」と即答する人が多いことは、疑いの無い事実。それほどまでにボニエクは、ポーランド国民にとって国を代表する存在となっている。

 1956年3月3日、首都ワルシャワからバルト海に注ぐウィスラ川流域の町、ビドゴシュチに生まれたボニエク。地元のザビジャ・ビドゴシュチでそのキャリアをスタートさせるが、頭角を現したのはストッパーとしてだった。

 しかし、1973年。17歳の時にポーランド中部に位置するビジェフ・ウッジに誘われて移籍。当時は2部にいたこのクラブで、ボニエクは持ち前のスピードを買われてFWへコンバートされる。

 鋭いシュートに、巧みなボールコントロールと抜群のスピードを兼ね備えたボニエク。あっという間にチームでのポジションをつかむと、ビジェフ・ウッジの1部昇格に貢献。そして、アタッカーとなってから3年もたっていない1976年3月。ボニエクは、アルゼンチンとのフレンドリーマッチでフル代表デビューを飾る。

 とはいえ、当時のポーランド代表は、若手がすぐにレギュラーポジションをつかめるほど甘いものではなかった。

 何せ、1972年ミュンヘン五輪では、ハンガリーを破って金メダルを獲得。2年後のW杯西独大会では、ディナやラトーといった選手たちが戦後初の本大会出場権を勝ち取り、過去最高の3位に入る好成績を収めた時期。

 1976年のモントリオール五輪で連覇を狙ったポーランドは、東ドイツに敗れて銀メダルに終わったが、欧州をリードする存在であることを改めて示す結果を残していた。

 FWの層も厚く、ルバンスキーやシャルマッハーといったライバルたちが鎬を削る状態。若きボニエクに与えられるチャンスは少なく、桧舞台で活躍するには、まだ時間が必要だった。

 そんなボニエクが世界に名を知らしめたのは、1978年のW杯アルゼンチン大会から。始めの2戦こそ、10分や15分といった短い時間しか出場機会を得ることが出来なかったものの、1次リーグ最後のメキシコ戦で初めて先発起用される。ポーランドが、すでに2次リーグ進出を決めていたせいでもあったが、ボニエクは見事に2ゴールを挙げて期待に応えると、以後はスタメンの座を確保。大会の全6試合に出場し、次代を担う存在としての地位を不動にした。

 この活躍でボニエクは、1978年の国内最優秀選手に選ばれる。更に、翌年も同賞を授賞。完全にポーランドを代表する選手となっていた。

 となると、チームの成績も、ボニエクの活躍と比例するかのように上昇。加入した頃、2部にいたビジェフ・ウッジは、1981、82年とリーグ連覇を達成するまでに成長する。

 だが、若くしてスター選手となったボニエクは、W杯スペイン大会予選の最中に、首謀者となって数人の選手とストライキを決行。協会首脳部への反旗は、1年間の出場停止という重い処分となって、自らの身に返ってきた。

 このドタバタ劇で新監督となったピエチニチェクが、処分取り消しを要求。ポーランドは3大会連続のW杯出場を決めたが、ボニエクの話題はこれだけで終わらなかった。

 代表チームがスペイン行きを間近に控えた中、ボニエクがセリエAの強豪ユベントスへ移籍することが発表される。当時、東欧圏の選手としては最高額となる200万ドルという移籍金も驚きを呼ぶものであったが、何よりもポーランドでは28歳以下の選手が国外に出ることは許されていなかった時代。まだ26歳だったボニエクがイタリアへ渡ることは、国民が裏切りと取ってしまう空気も強かった。

 それでも、ボニエクはスペインの地で改めてその力を示し、より高いレベルでの活躍が相応しい選手であることを知らしめた。

 1892年のW杯スペイン大会。1次リーグでは3戦目までゴールはお預けとなったが、2次リーグでは、ベルギーを相手にハットトリックを決める大活躍。2大会ぶりの準決勝進出を果たす立役者となった。

 しかしながら、ボニエクは準決勝のピッチに立つことはなかった。2次リーグの2試合目、「連帯」の旗が揺れる中で行われたソ連戦でイエローカードをもらったため、累積警告により出場停止。最大の武器を失ったポーランドがファイナリストとなる夢は、この時点で消えていた。

 得点ランク3位タイとなる大会通算4ゴール。前回大会を上回る鮮烈な印象を残したボニエクは、この年、バロン・ドールの投票でも3位にランクされた。

 だが、新天地イタリアでの栄光は、代表チームで勝ち得たものを上回るものであった。もともと、ユベントスはW杯で優勝したイタリア代表の主力を多数抱えたスター軍団。ゾフ、ロッシ、カブリニ、シレア、タルデリといったアズーリのレギュラーがいる上、ボニエクと同時にフランス代表の主将プラティニという最高の司令塔をも獲得していた。

 馴染むのに多少時間は掛かったが、1984年には初めてスクデットを獲得しただけでなく、欧州カップ・ウィナーズ・カップにも優勝。初のビッグ・タイトルを手中にする。

 とは言っても、日本だけではなく、世界中のファンが確実に脳裏に刻んでいるボニエクの一番有名なプレーとなれば、ひとつしかない。翌1985年5月のブリュッセル。39名の命が奪われたヘイゼルの悲劇が起こった後でのものだろう。

 欧州チャンピオンズ・カップ決勝。連覇を狙うリバプールに挑むのは、その2年前にHSVの前に最後で涙を飲んだユベントス。史上初めて欧州3大カップの全てを手にするチャンスを得たユーベにとっては、心苦しい舞台ではあったが、この夜唯一のゴールを呼び込んだのはボニエクであった。

 自陣からの縦パス一本に抜け出したボニエクが、真っ直ぐにゴールへ突進。ペナルティエリアに突入しようかという瞬間、リバプールDFの足がかかって倒れるボニエク。プラティニという絶対のPKキッカーを擁するユベントスは、この判定に勝利を確信。ボニエクも両手を突き上げて、喜びを露わにした。(この場面、リプレイを見るとファウルは明らかにエリアの外であったが、UEFAが騒ぎを引き起こしたリバプールを勝たせたくないために主審が笛を吹いたとも言われている。)

 結局、プラティニが成功させたPKによる1点を守り切り、ユベントスが悲願の初優勝。ボニエクは、ポーランド人として初めて欧州ナンバー1の称号を手にすることとなった。

 そうなると、当然次の目標はインターコンチネンタル・カップ(トヨタカップ)獲得という、世界一への挑戦だったはず。日本のファンも楽しみにしていたのだが、ボニエクはこのシーズン限りでローマへと移ってしまい、その雄姿を国立競技場で観ることは出来なかった。

 ローマではルディ・フェラーやトニーニョ・セレーゾらと共に古豪の復権に尽力。年齢が上がることにより、トップスピードに入る時間や距離が少なくなる部分は否めなかったが、長くセリエAを彩った外国人部隊の一人として多くのファンに愛された。

 W杯には、1986年のメキシコ大会にも出場。主将としてチームを率いた。グループリーグを薄氷の思いで突破したものの、決勝トーナメントではブラジルに4点を叩き込まれて完敗という苦い結果に。ボニエク自身も、3度目の大会で初めてノーゴールのまま姿を消した。

 ポーランド代表としては、80キャップで24ゴール。W杯で15試合に出場してながら、得点を挙げたのはわずかに3試合だけというのは意外な気もする。

 それでも、ポルトを破って欧州カップ・ウィナーズ・カップに優勝した際には決勝ゴール。翌年のビッグイヤー獲得時には、PKを誘うという記憶に残るプレーを残しているボニエク。獲得したタイトルやネットを揺らした回数以上に、人々が忘れ得ぬ選手となっているのだろう。

著者:らいてぃー 

 
 
  メールマガジンの
ご購読(無料)は
こちらから <
enter>