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| 2004/03/13掲載 |
| 【アンドレアス・メラー】 |
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先週、90年より代長くドイツ代表で活躍したMFアンドレアス・メラーが、突如、シーズン途中での現役引退を発表した。今季より古巣アイントラハト・フランクフルトでプレーしていたメラーだったが、構想外に近い扱いを受けていたことで自ら契約解除を申し入れ、クラブ側もこれを了承。ドイツだけでなく、欧州をも代表する司令塔がピッチを去ることになった。
代表レベルでは、W杯と欧州選手権。そして、クラブレベルにおいても欧州チャンピオンズ・リーグにUEFAカップ、トヨタカップと獲れる限りの主要なタイトルをほとんど手にしている希有な存在。どこの国でも、メラーと肩を並べる程の成功者を探すことは難しいだろう。
フルネームは、アンドレアス・ウォルター・メラー。1967年9月2日生まれということで、すでに36歳となっていた。現役生活を終えたフランクフルトが故郷でもあり、そのキャリアが始まったのも、やはりこの土地。
地元のクラブ、シュバルツバイス・フランクフルトで頭角を現すと、14歳の時にブンデスリーガの名門アイントラハト・フランクフルトから声が掛かり、憧れのクラブに入る。
ベルリン五輪に出場した陸上選手だった祖母の地位を血を引いたメラー。当初は、その俊足を活かしたCFだったというが、いつしかポジションを下げてゲームをコントロールする才能をも発揮して行く。
滑らかなドリブル突破に加え、中長距離力からのシュート力にも非凡な
ものも持ち、スルーパスのセンスにも優れたコンダクターに成長。18歳でトップチームにデビューすると、瞬く間にポジションを掴み、次代のドイツを担う存在として注目を浴び始める。
だが、1988年。若き司令塔は、フランクフルトにドイツ・カップ優勝という
置き土産を残して、ボルシア・ドルトムントへ移籍してしまう。同時に、この年の9月。21歳になったばかりのメラーは、ソ連戦でA代表にもデビュー。新天地での活躍を確約するかのように、出世街道を駆け上がって行く。
細かなテクニックを披露するようなプレーはしないが、卓越した技術に裏打ちされたメラーのゲームメイクは、10代にして国内でも指折りの評価を受けるに至る。翌1989年には、ドルトムントでもドイツ・カップに優勝し、2年連続の戴冠を果たすのだが、決勝で格上と見られたブレーメンを4-1と粉砕した原動力は、誰が見ても一目瞭然であった。
一つ一つ正確なプレーを積み重ね、広い範囲に目を光らせる姿は、西ドイツが待ち望んだゲームメイカーの誕生と言われ、当然のように1990年のイタリアW杯に参加する代表メンバーにも選ばれる。
とはいえ、マテウスという絶対的な存在に加え、中盤の攻撃的な位置にはベテラン、リトバルスキーやヘスラーといったライバルもいた西ドイツ。若きメラーの出番はほとんどなく、交代で2試合に出場しただけで、優勝という最高の瞬間を味わったのも、ピッチの上ではなかった。
また、この年メラーを育てたフランクフルトは、3億円もの額を積んで次代のスターを呼び戻す。国内でも最高級の評価を得るに至ったMFは、順調な成長を見せて代表チームでもポジションをつかんで行く。
すると、これに目をつけたのがセリエAの強豪ユベントス。1992年にイタリアへと新天地を求めるとプレ・シーズンのツアーで来日し、日本のファンの前に初めて姿を見せた。ユーベにいた2年間では、スクデットこそ逃したものの、1993年のUEFA杯には優勝し、自身初となるクラブレベルでの国際タイトルを手にしている。但し、決勝の相手は、皮肉にも古巣のボルシア・ドルトムントであった。
1994年は、アメリカで再びW杯の舞台に挑戦。今度は不動のレギュラー
かと思われたが、世代交代の進まないチームにあって先発出場は3試合に留まり、十分な活躍を見せることは出来なかった。
しかしながら、イタリアの水には余り馴染めなかったメラーも、W杯後にドイツへ戻ることを決意してボルシア・ドルトムントに復帰すると、急激に輝きを増して行く。まずは、復帰した最初のシーズン。後ろではザマーやロイターが手綱を引き締め、メラーはリードレやシャプイサといったアタッカーを自在に操り、新しい指揮官の座に収まる。チームは、ブレーメンとの長い接戦を続けながらも、最終節で逆転。ブンデスリーガとなってから初めてのマイスター・シャーレを劇的な形で手中にした。
そして、メラーにとってキャリアのハイライトとなったのは、翌1996年。苦しみながらもリーガ連覇を達成すると、欧州チャンピオンズ・リーグでも
下馬評を覆し、絶対的優位といわれたユベントスを破って優勝。続いて、イングランドで行われた欧州選手権にも絶大なる貢献をして優勝へと導いた。決勝のチェコ戦では、累積警告により出場できなかったが、グループリーグ突破も危ぶまれたドイツが快進撃を見せたのは、間違いなくメラーの奮闘があってのこと。怪我で万全でなかったクリンスマンに代わってキャプテンマークを巻くことも多かった司令塔が、遂に代表での栄光も手にした瞬間であった。
最後の締めくくりは、年末のトヨタカップ。ブラジルのクルゼイロを圧倒したドルトムントは、ドイツ勢として久しぶりのインターコンチネンタル杯を獲得。その晩の2ゴールを演出し、質の高いゲームメイクを見せたメラーは、MVPにも選ばれた。
この時、29歳。正に円熟の極みにあるプレーで、ドイツのみならず、欧州を代表する指揮官となっていたのだが、以後は大きな栄冠を手にするには至らなかった。
3度目のW杯となったフランス大会では、クロアチアの前に敗れ去り、2000年の欧州選手権ではメンバー入りさえ出来ずに、代表からの別れを強いられる。その上、フォームを崩したことでドルトムントからも放出されてしまい、2000年よりシャルケ04に移る。すると、意地を見せるかのようにシャルケの復活に寄与し、最後の最後まで優勝争いをするまでにチームを牽引。自身も、代表復帰が囁かれる程の好調な姿を再現した。
とはいえ、年齢による衰えは運動量の面でも顕著となり、怪我からの回復も遅くなる一方。 昨年オフには、シャルケを離れたことを機に引退を決意したのだが、故郷のフランクフルトが3度目のオファーをくれたことで翻意。現役生活を続行していた。
しかしながら、怪我や監督との確執もあって今季の出場機会は、ごく僅かなもの。結局、チームの重荷になってきたことを感じたメラーは、潔く第二の人生に踏み出すことを選択した。
ブンデスリーガでは、通算429試合に出場して110得点。ドイツ代表としては85キャップを刻んでおり、欧州だけでなく世界の舞台でも数多くの栄光をつかんできた。
同じポジションに1歳違いのテクニシャン、ヘスラーというライバルがいたおかげで、代表での地位を確立するには至らなかった印象も強いが、その才能は間違いなく類希なるもの。180センチ、75キロという均整の取れた身体から生み出されるパワーとセンスが驚異的な活動量と結びつき、王様然と振る舞う様は、実に絵になる選手であった。
所属クラブ)アイントラハト・フランクフルト〜ボルシア・ドルトムント〜アイントラハト・フランクフルト〜ユベントス〜ボルシア・ドルトムント〜シャルケ04〜アイントラハト・フランクフルト
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著者:らいてぃー
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