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2004/03/16掲載
金田喜稔
 
1982年のW杯スペイン大会で、全世界を魅了した「黄金のカルテット」。ブラジルが創り出した創造性溢れる中盤になぞらえ、ジーコ・ジャパンでも欧州組を集めた日本代表の中盤に、黄金という枕詞が付くようになった。

日本でも黄金の中盤というフレーズがいつの間にか定着した昨今、オリジナルのブラジルが活躍したW杯スペイン大会の予選に出場した若き日本の中盤を、再評価する記事もあちこちで見受けられる。

戸塚哲也、風間八宏、そして金田喜稔。4-3-3の布陣が常に基本型となっていた時代において、この3人が組んだ中盤は他の国々と比べても非常に魅力溢れるものであった。

「センタリング信仰」とも言うべき程に外に開いてから中で合わせる形ばかりを最良の攻撃と信じていた頃、中盤の選手は、とにかく動き回ってボールを拾い、ウイングにボールに集めることを求められていた。

その中で、足裏を使ったフェイントを駆使して相手を引き寄せる戸塚に、ダイレクトでのスルーパスを常に狙う風間の存在は異色であり、サッカーの違う楽しみを見せてくれた数少ない選手と言えた。

だが、そんな多彩な技巧を持つ2人よりも更に目をひいたのは、金田が
見せた変幻自在のドリブル。右に行くと思ったら左、左に釣ったら右。一人を抜くことなど朝飯前。敵を並ばせ、間をすり抜ける。瞬時に2人が置き去りにされる場面も、一度や二度ではなかった。

何より釘付けにされたのは、そのフェイントのスタイル。右足のアウトサイドでボールを押し出すように見えても、その右足は高速でボールの横から前へと通り抜ける。次に左足がボールを押し出した時には、マーカーなど存在しない。

相手に背を向けても細かいタッチで視線を困惑させ、身体が右や左に回転すると、敵はボールの所在をつかめぬままに、金田を取り逃がす。

パスの正確さ、危険なスペースを埋める能力。サッカーというスポーツには、様々な技術やうまさの要素が存在するが、人を抜き去るという実に分かり易い技術の高さが、金田には備わっていた。

若い世代のファンには、WOWOWやTBS等のサッカー解説者といった方
が馴染みある肩書き。但し、金田の現役時代を知る者なら、日本サッカー冬の時代にあって、世界に挑戦出来た才能を持つ数少ない選手だったと、信じている人も少なくないだろう。

金田喜稔は、1958年2月16日広島県の出身。今では圧倒的に遅い方となろうが、本格的にサッカーを始めたのは、中学生の時。友達に誘われたという単純な理由からだった。それでも天賦の才を持っていた金田は、瞬く間にそのスキルを向上させ、県下の名門、広島県工高の門を叩く。

静岡、埼玉と並ぶサッカー王国の御三家に数えられていた広島で、常にトップレベルのチームを作り続けていた「県工」。20年以上に渡って指揮を執る名将、井上国三監督の下で厳しい練習にも耐え、まだ関西で行われていた全国高校選手権には3年連続で出場。3年時には準決勝まで駒を進めた。

この大会、1回戦の巻高校戦では10点を挙げるゴールラッシュを見せ、2回戦でも4-0と大勝。優勝候補の一角としての強さを見せつけたが、石神良訓(のちヤマハ)、吉田弘(のち古河)らを擁する静岡工に完敗し、大会を去っている。

それでも、同学年に楚輪博(のちヤンマー)。一つ下には、のちに日産でも金田と2枚看板を形成した木村和司というタレントも揃えていた県工は、大会屈指のスター軍団ともいえる陣容を誇っていた。

そして、高校卒業後は中央大学に進学。並外れた金田のスキルは、大学レベルでも群を抜くものであり、すぐにレギュラーポジションを確保。
2つ上に早野宏史(のち日産)や久米一全(のち日立)。1つ上にも須藤茂光(のち日立)といった選手を揃えていた中大に、強力な切り札が加わった。

以前からユース代表でも名を売っていた金田は、大学レベルでも活躍を続けると、次のステップはすぐに訪れる。1977年6月。まだ19歳、大学2年生だった金田は、W杯アルゼンチン大会の予選で敗退したばかりのフル代表に選出され、西独代表MFオベラーツの引退興行として来日した1FCケルンとの親善試合でデビューを果たす。

ブンデスリーガきっての強豪チームを相手にしても、金田の切れ味鋭い
ドリブルは十分に通用し、自信を深める。更に、ケルン戦のすぐ後に組まれていたソウルでの韓国戦では、A代表初ゴールも決めてしまう。

この年の夏、7月から8月にかけて行われた欧州遠征では、自らの技量が欧州の選手と比べても全く劣ることのないことを確認した金田。
A代表への抜擢からわずかな間に、日本にとっても欠かすことの出来ない選手へと成長していた。

だが、翌1979年。日本代表が二宮監督から下村監督にバトンタッチすると、一時的に金田の出番は激減。再びスタメンに定着するのは、1980年のモスクワ五輪予選を控えた時期になってからだった。

一方、主戦場となる大学での成績は、それほど目立ったものではなかった。当時は、早稲田大や法政大の全盛期。3年次に関東大学リーグで優勝したのが唯一のタイトルであり、最上級生となった1979年度には、総理大臣杯で決勝まで進んだが、国士館大に敗れて準優勝に終わっている。

大学を卒業を控え、現役の代表選手である金田には、当然のようにJSLの強豪チームが数多く熱い視線を送っていた。日本人離れしたテクニックは、どのチームも喉から手が出るほどに魅力あるものであったが、当初、金田は郷里広島の東洋工業に入ることが既定路線だと思われていた。

というのも、東洋工業の小城監督は、中大の出身。金田が中大に進む世話をしたのが他ならぬ小城自身であったから、そのルートが崩されることはないと、他チームの関係者も踏んでいた。

しかし、金田は単位を落としてしまい、大学を4年間で卒業出来ず。このまま東洋工業に入ってしまうと、大学中退を余儀なくされてしまう。大学でのプレー年限は4年のみ。大学はきちんと卒業したいと考えていたことから、急遽、大学に通いながらもプレーできるチームを探す羽目になった。

大学を中退してJSLチームに進んだ選手は、過去にも少なくなかったが、大学に在籍したままの選手を受け入れるところは少なく、そこで名乗りを上げたのが日産。1974年に日産の監督となった加茂周は、当時、神奈川県リーグの1部にいたチームを「7年かけてJSL1部まで引き上げて欲しい。」と、上層部に言われていた。そのノルマはようやく果たしたものの、タイトルを狙うチームを作り上げるには不十分と感じており、チームを変える目玉の選手を欲していた。

そこで白羽の矢が立ったのが金田であり、元来攻撃的なサッカーを志向していた加茂にとっては、うってつけの人材であった。かくして金田は日産に入ることとなったが、JSLでは2年連続の最下位という結果に終わり、2部へと落ちてしまう。

とはいえ、日産は翌1981年にも明治大から金田の高校時代の後輩、木村和司を獲得して周囲を驚かせる。木村も、日本代表に抜擢した渡辺監督が新日鉄の出身だったことから、内定済みと見られており、他のチームが全く手を出していなかった。

ところが、木村が九州の新日鉄ではなく、在京のチームに興味を持って
いるとの噂が流れて来る。理由は、大学時代に知り合った女性と結婚するため。これを聞きつけた加茂は、自らのサッカー観や将来はプロ選手をも抱えてやっていきたいことを伝え、サッカーだけで勝負したがっていた木村の心を動かした。

そして、木村は高校の先輩である金田の存在もあって、日産入りを決意。まだまだ弱小チームだった日産に日本屈指の才能と技術を持つ2人が揃ったことは、後にJSLの勢力図が大きく書き換えられるきっかけとなった。

1981年はJSL2部で2位となると、入替戦にも勝ち、1部に復帰。加茂が木村にも約束した通り、日産は1年でトップリーグへと返り咲いた。

復帰1年目こそ8位と振るわなかったものの、日産にとって転機となったのは、1983年。JSL史上、前代未聞とも言われた程、大量の大物選手を補強することに成功する。国士大から柱谷幸一、筑波大の越田剛史、中大からは田中真二。3人の現役フル代表選手を筆頭に、Wユースにも出た法大の水沼貴史、東農大の杉山誠、愛知学大からも境田雅章と、有力選手を根こそぎ獲得。

こうしたリクルートも、金田、木村という日本代表の核となる人材がいた
おかげであった。日本サッカー界の中で一、二を争うテクニシャンが揃うチーム。それだけで、若い選手たちの心を掴むには、もう苦労など必要なかった。

前線に金田、柱谷に水沼。中盤には、木村とマリーニョ、そして清水。
DFラインでは杉山、越田、田中と、即戦力のルーキーたちが次々とポジションを確保し、チームは様変わりする。

一気に層を厚くした日産は、そのシーズンのJSLで過去最高の2位に入ると、天皇杯では勢いに乗って初優勝を遂げる。専門誌で日本のユーベとも書かれるようになっていた日産は、この戴冠により名実ともに日本を代表するチームへと脱皮した。

それまでは、金田や木村に偏りがちだった攻撃も圧倒的に幅が広がり、多彩なアタックを実現。金田が得意としたまたぎのフェイントは、その独特のリズム感からキンタ・ダンスと呼ばれていたが、マークが薄くなったことで、更に陽の目を見るようになっていた。

だが、皮肉にも金田のプレーに曇りが出てきたのは、日産が強くなって
来たこの頃から。翌1984年、ロサンゼルス五輪予選で惨敗を喫すると、代表チームは大きな変革を迫られる。切れを欠いたと見られていた金田も例外ではなく、同年初夏のジャパンカップ(現キリンカップ)に出場したのを最後に、金田の代表としてのキャリアは、26歳にして終わりを告げた。

その上、時を同じくして怪我に泣かされるようになったことも、キャリアに大きな影響を及ぼして行く。1985年度、日産が2度目の天皇杯を掲げた際には、内転筋を痛めてほとんど試合に出られなかった。

そんな中で、1986年。奥寺の帰国により、日本にもプロサッカー選手が
誕生することになり、木村が国産のプロ第一号となる。ただ、プロ契約を見とめるにあたっての「心技体が揃った選手」などという曖昧な基準が波紋を呼び、翌シーズンからは読売と日産の選手を中心に大量のプロ選手が生まれていく。

もちろん、金田にもプロ転向への打診はあったものの、首を縦に振る気配すら見せない。選手はプロであっても評価する側はどうなのか、その査定は一体誰がどのような基準で行なうのか。プロとなることで、会社による保障を失うのなら、その後の人生はどうなってしまうのか。
選手だけがプロとなる特異な環境に納得出来ない金田は、結局、同僚の境田と共に最後までプロ契約を結ぶことはなかった。

とはいえ、アマチュアとしての意識が強かった金田に、自らを律する側面が薄かったことも否定は出来ない。金田は有名なヘビースモーカー。試合前のロッカールームでも、平気で煙をくゆらせていた姿に驚きを覚えた選手も少なくないという。柱谷幸などはプロとして生きるために煙草をやめたというが、そうした周囲の変化も、金田にはどこ吹く風といったものであったのかもしれない。

それでも、数シーズンの低迷の後、チームでのポジションを失っていた金田は、1987年頃から復活を遂げる。再びドリブルの破壊力を取り戻すと、出場試合数も増えて行き、一時は代表復帰も囁かれるほどであった。

そして、金田の復調と時を同じくして、日産に本当の黄金時代が訪れる。その最大の原動力となったのが、ブラジル代表とサンパウロFCで主将を務めていたオスカー・ベルナルディの加入だった。名前ではなく、周囲からも広くカピタン(キャプテン)と呼ばれていた選手が来たことで、チームに芯が通り、メンタル面でも大きな成長を遂げて行く。

1989年のJSLで悲願の初優勝を果たすと、日産は一気に3冠を制覇。金田も優勝に大きな貢献をして、苦しかった時期を払拭する喜びに浸った。

日産は1988年から90年にかけての2シーズンは、国内タイトルを全て獲得し、無敵の存在となって行くが、その2年目、加茂に代わって監督に就任したオスカーが3バックを導入したことにより、金田は出番を失う。前線にはレナトやロペス、長谷川。トップ下の位置には、木村や財前が起用され、居場所がなくなって行く。すでにベテランとなった選手にアウトサイドのポジションはきつく、馴染むことも出来なかった。

結局1991年、JSL最後のシーズンを前にして現役引退を決断。すでに2年後のプロリーグ発足が発表されていた中での引き際だった。JSLでは、通算139試合に出場。19ゴールで24アシストという記録を残してサッカー界から足を洗った。

日本代表としては、国際Aマッチだけなら58試合出場で6ゴールだが、B、Cマッチを含めると、その3倍に近い154試合18ゴールという数字に膨れ上がる。代表での実勤年数が5年ほどであったことからすれば、驚異的な数字と言ってよいだろう。

また、当時の写真を見れば分かることだが、ユニフォームの袖を短く折り返す着こなしは、金田の代名詞。80年代前半に少年時代を過ごした選手の中には、彼を真似して袖口を折っていた人も多かったのではないだろうか。

その後、社業に戻った金田は、人事部から総務部へと異動も経験し、サラリーマンとしての人生を歩み始める。そんな金田をサッカー界に引き戻したのが、Jリーグ開幕と同時に訪れた未曾有のサッカーブーム。
瞬く間に数字を取れるコンテンツとなったJリーグは、かつてのスター選手を解説者として欲するようになる。

しばらくは社業と解説業を並行させ、2足のわらじを履いていたが、余りの多忙さにフリーの解説者となることを決意。1993年9月、あれほど思い入れの強かった会社を退社する。

積極的にサッカーと関わって行く道を選択したことで、自らのために有限会社フチューマを設立。現在は、解説や執筆業だけでなく、スポーツショップB&Dのアドバイザーとなっている他、サッカー教室や講演会等の活動も精力的にこなす毎日。選手時代は知らなくとも、サッカー界の御意見番としての金田喜稔を知らない人はファンの中でも少ないだろう。

選手としてプロになることを拒んだ男が、引退した後にサッカー漬けになる日々を送るという不思議なめぐり合わせ。金田のサッカー人としての働きは、まだまだ終わることがない。

著者:らいてぃー 

 
 
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