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| 2004/03/17掲載 |
| 【若き才能の行方】 |
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2004年のJリーグが開幕した翌日。スポーツ紙の一面には、勝ったチームでもなければ、スター選手の名前が躍っていた訳でもなかった。
(関東で)3紙の見出しを飾ったのは、東京ヴェルディの森本貴幸。すでに多くのところで報じられているように、今月、中学校の卒業式を終えたばかりの15歳で、厳格に年齢におけるカテゴリー分けをするなら、まだジュニアユースに相当する選手。その少年が、Jリーグの盟主とも言うべき磐田のDFを簡単に切り裂き、恐ろしいまでの才能を見せつけた。
普段は、若手を持ち上げる発言などしないアルディレス監督でさえ、「世界的にみても特別な才能。」と述べていたのを証明するプレーぶりは、日本にも本当の怪物が現れたことを物語っていた。
これまでのJリーグにおける最年少出場記録は、昨季、広島に所属するU19代表のMF高萩洋次郎が更新したものであり、16歳8ヶ月3日であった。(J1では、FC東京の呉章銀で、16歳8ヶ月20日。)それでも高萩は1986年生まれ。高校2年生でのデビューということで、阿部勇樹(市原)や小松原学(当時、平塚)と同じ学年での記録。誕生日の違いで、多少の前後があっただけであり、J2での記録という面でも大きな驚きとはならなかった。
それだけに、新学年となっても高校1年生にしかならない森本の出現は、日本のサッカー界に大きな驚きを与えて当然のことである。
今では2種登録のユース出身者が、高校在学中にトップデビューを飾る
ことなど珍しくもなくなったし、ゴールを挙げてもそれほどのインパクトを
感じさせることはない。
かつては、高校3年生に相当する17歳でデビューした稲本潤一(当時、
G大阪)が初出場から1ヶ月程でゴールも決めると、メディアは騒ぎ立てた。だが昨季、柏の菅沼が2種登録2年目の高校3年でJ初ゴールを挙げた際には、大きく取り上げられることもなかった。すでに高校生がJリーガーとなってもスコアラーとなっても、新鮮味はないに等しいのだ。
それに、若くしてデビューを飾った選手が、全て順調に育つ訳ではない
こともファンはとっくに知っている。小松原は度重なる怪我に苦しみ、今はJFLの群馬ホリコシでプレー。同じく17歳でデビューした飯尾一慶(東京V)や野沢拓也(鹿島)にしても、Jリーグ初出場から5年を経た今もレギュラーとなれずにいる。
才能では稲本を上回ると言われ続けた阿部も、フル代表候補となった経験は持つものの、キャップ獲得は未だなし。しかも、年齢制限のある五輪代表においてもレギュラーポジションを確保している訳ではないことは、正直、歯がゆい思いもする。
若い才能が順調に育つのか。これは昔から未知数のことであり、日本だけに限らないこと。世界でも、若いうちだけ騒がれて消えていった選手は、挙げればキリがない。ブラジルをワールドユース優勝に導いたFWカイオは、インテル移籍後にめっきり名前を聞かなくなり、ガーナから生まれ、新しいペレと騒がれたMFニィ・ランプティも、ビッグクラブで活躍した話さえ聞かずにいる。
W杯における最年少出場記録(17歳41日)を持つ北アイルランド代表のノーマン・ホワイトサイドは、マンチェスター・Uやエバートンといった強豪に所属したものの、素行の悪さから20代半ばで終わった選手と言われていた。
国内に目を移しても、アトランタ五輪を頂点にして影が薄くなって行った前園真聖に、高校生でバルセロナ五輪予選に出場した高田昌明など、若い頃の高評価がその後の活躍にリンクされていないケースは数多い。
近いところでは、2002年のフランスW杯前には、今後10年は右サイドの
人材不足が解消されると言われていたものだった。2002年4月1日。ソウル蚕室競技場で行われたW杯日韓共催記念試合で、代表初キャップを刻んだのは、17歳と322日に過ぎなかったDF。四半世紀ぶりに代表での最年少出場記録が更新されたことで、各方面から大きな賛辞を呼び起こした。
しかし、現代表で右サイドバックを務めているのは、史上最年少の17歳
でフル代表にデビューした市川大祐ではない。怪我やオーバーワークもあった上、独特の戦術を敷くトルシエ政権下では、本来ボランチの明神にポジションを譲るなど苦難の道を歩んできた市川。昨季は、23歳にしてクラブでのポジションも危ういものとなりかけていた。
こうした例を挙げるまでもなく、若くして才能を開花させた選手が尻すぼみになって行くのには、残念な思いが強い。
その筆頭として真っ先に思い出されるのが、JSL時代の最年少出場記録を持っていた読売クラブの菊原志郎。1986年2月1日、高校1年生だった16歳6ヵ月でトップリーグへのデビューを果たした逸材は、その柔らかなタッチや独特のパスセンスで大きな話題を集めた。だが、菊原は20歳で代表入りしたものの、ラモスや戸塚、北沢といった実力者を蹴散らすだけの存在感を備えるには至らず。度重なる怪我もあって、20代半ばで引退するという意外な幕を引く結果に終わっている。
市川の前にフル代表での最年少出場記録を持っていた高橋貞洋は、帝京高校3年のときに日の丸を着けていながら、大学時代に忘れ去られた存在となり、フジタに入ってからも輝きを取り戻すことはなかった。
逆に、元祖天才少年とも言える戸塚哲也は、その後も大きく育った選手の代表格と言えるだろう。1979年4月、18歳の誕生日の翌日にデビューした戸塚は、読売クラブという日本サッカーの革命的組織が生んだ最高の傑作。当時、ブラジル人しか出来ないものとされていた軸足の後ろを通して次のプレーに移るトラップや、浮き球をワンタッチでコントロールする技術を高校3年生の戸塚が備えていた衝撃は、実に大きなものであった。
戸塚は翌年にはフル代表に名を連ね、W杯スペイン大会の予選では不動のレギュラーとして活躍。読売クラブの黄金時代を築くことに多大なる貢献をして、自らはJSLで2度の得点王にも輝いた。一時は代表入りを拒否するという時期もあったが、メキシコW杯の予選では周囲の後押しから復帰を決断し、伝説の韓国戦で奮闘したことも忘れ得ぬ思い出として語られよう。また、ヴェルディで栄光を手にした後の晩年には、柏のJリーグ昇格にも力をかしている。
早熟な天才児たちの系譜を辿って行くと、必ずしも明るい未来が待ち受けている訳ではない。それでも、最も早くから多くの若い才能を送り出してきたヴェルディの伝統が、再び特別な珠玉を生み出したことは疑う余地もないところ。今後、森本はチームでのレギュラー争いは勿論、最年少での代表入りなどにも期待をかけられることとなろう。
気の早いメディアは、アテネへの秘密兵器という書き方をしているが、散々持ち上げてから一気に叩き始める性質を持った周囲を、どれだけシャットアウト出来るのかも大切なことであろう。
昨年は、大久保(セ大阪)への扱いが、掌を返したように針が振れていく様子を体感した。今年に入っても、平山をこぞって賞賛していた人達が、五輪予選でゴールが生まれないと、途端に欠点を挙げつらう始末。
プロ入りもしない高校生に対してこれであるのに、すでにJクラブの一員である森本がどんな言われ方をするのかは、察しがつくというもの。
若くしてスターダムに昇りつめたマイケル・オーウェンやウェイン・ルーニーの場合にも、彼らが所属するクラブは、メディアの前にさらすことを避けて無用な喧騒から守り通すことに神経を使ってきた。
多くの場合、メディアが必要以上に騒ぎ立てることで、本人を取り巻く環境が変わり、とりわけ、周囲の対応が全くの別物となって行く。その変化によって自分の実力や立場に勘違いが生まれ、プレッシャーを自ら作り上げることも少なくない。そして、サッカーという本業だけに集中する意識が薄れた時には、すでに下降線が描かれてしまう。
幸い、東京Vにはアルディレスという世界を知り尽くした監督がいるので、森本の育て方にも細心の注意が払われるはず。それでも、義務教育を終えたばかりの少年が、監督やクラブの目が届かないところでどのように自らを律することが出来るのか。どうしても不安は残るだろう。
初めてのJのピッチで、憧れのロナウドと同じプレーを簡単に成功させた資質に、親から授かった恵まれた身体。わずかな映像を見ただけで森本に魅了された人は、少なくないはず。だからこそ、日本のサッカーを変えるような逸材には順調に育って欲しい。
平山相太に森本貴幸。続々と新世代のスター候補が現れている中、彼らのような選手が大きく育つための環境づくりを怠ってはいけない。そして、関係者はもちろん、メディアやファンも才能ある選手たちを近視眼だけでは捉えないでもらいたい。
人が育つ喜び。それはサッカーだけに限らず、誰もが様々な場所で抱えている気持ち。その喜びをより大きなものとするために、どのような態度が求められているのか。一人でも多くの人が真摯に考えるべきであろう。
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著者:らいてぃー
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