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| 2004/03/30掲載 |
| 【ビル・シャンクリー】 |
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「サッカーは生死よりも重要だ。」こう語ったのは、マージー・メシア(マージー川の救世主)と呼ばれた名将ビル・シャンクリー。
リバプールを欧州屈指の強豪に育て上げた伝説的監督である。
第一次世界大戦勃発の前年にあたる1913年9月2日、グレンバックという小さな町に生まれたシャンクリー。2人のおじと、自分を含めた5人の兄弟が全てプロサッカー選手になるという際立った血筋にあったシャンクリーは、当然のように同じ道を歩み、右のサイドハーフとしてカーライル・Uでデビューする。
そこで頭角を現すと、プレストン・ノースエンドへ移籍。フットボールリーグの初代王者でもある名門チームで、初めて1部リーグを経験する。
プレストン在籍時の1937年と1938年には、2年連続してFA杯決勝に進出。一度目はサンダーランドに敗れたが、翌年はハダーズフィールドを破ってクラブに久し振りの優勝トロフィーをもたらした。
しかし、その1938年。シャンクリーがキャリアのピークにあった25歳の時。イギリスは第二次世界大戦に突入し、リーグが中断。ウォータイムカップや地域リーグは続行されたものの、サッカーに専念する環境は完全に失われてしまう。スコットランド代表5キャップという数字も、ここで塞き止められた。
戦後はプレストンに復帰したが、戦時中に最も脂が乗った時期を奪われた痛手は余りに大きく、1949年3月に現役引退。プレストンの最多得点者となる伝説的FWトム・フィニーとのプレーも、ごく僅かな間のものだった。
引退と同時に古巣のカーライルで監督業をスタートさせ、1951年にはグリムズビーに移り、3部の北部リーグで2位となる好成績を残す。1953年にはワーキントン。また、1956年からはハダーズフィールドと、2、3年でチームを次々に変わっていたが、1959年12月、伝説を創って行くことになるリバプールの監督に就任する。
1954年に2部へ転落して以来、なかなかトップリーグへ復帰出来ずにいたリバプール。かつてはリーグ優勝も経験していたチームであったが、主要な軍需工場があった港町は、戦火の爪跡が色濃く、サッカーにも大きな影響を及ぼしていた。2部でも下位に低迷し、3部へ降格する危険にも度々さらされていたチームは、勝つ味を忘れ、勝利への貪欲さも失われていた。
そんなチームに闘争心と競争意識を強烈に植え付けたシャンクリーは、1962年に2部で優勝し、就任3年目で待望の1部復帰を果たす。
すると、1964年には1部昇格2年目でリーグ制覇。翌1965年にはクラブ史上初のFA杯を手中にし、瞬く間にリバプールの復権を実現させる。
今もクラブの歴代トップスコアラーであるロジャー・ハントに、クラブの最多出場記録を持つイアン・キャラハンといった選手を軸に強さを取り戻したリバプールは、わずかな間に完全な勝者のメンタリティーを持つチームへと変貌を遂げていた。
ピッチに出て行く通路の壁には"This
is Anfield"と記し、選手の気持ちを鼓舞させる。ロッカールームでは、ときに激しい罵りの言葉を用いてチームを発奮させ、トレーニングでは一人一人に目を光らせて、悩みを抱える選手とはブーツルームで向き合った。
1966年には、再びリーグ優勝。更には、欧州カップ・ウイナーズ・カップで準優勝を果たし、欧州の舞台でもコップの歌声が響き始めるが、その後は世代交代の時期に差し掛かったこともあり、しばらくタイトルから遠ざかる。
そして、アンフィールドの歴史を変える転機となったのは、1971年。
FA杯で準優勝という結果を残した後のことだった。3部のスカンソープ・Uより小柄なFWケビン・キーガンを獲得。キャラハン、トンプソンといったベテランに加え、GKのレイ・クレメンス、DFアレック・リンゼイ、MFエムリン・ヒューズらが次々にイングランド代表へと成長していたチームに絶対的なゴールゲッターが加わったことで、新たなレッズはこれまで以上に強さを発揮するようになる。
特に、ジョン・トシャックとケビン・キーガンのコンビは前線で暴れまわり、ゴールを量産。1973年にはリーグ優勝のみならず、UEFA杯にも優勝し、初めての欧州タイトルをもたらした。しかも、決勝戦で破ったのは、前年の欧州選手権を制した西ドイツ代表の主力であるネッツァー、ボンホフ、ハインケス、フォクツといった屈指のタレントを擁するボルシアMG。このスター軍団を撃破したことで、リバプールの実力は広く認められるようになった。
だが、翌1974年。2度目のFA杯優勝を置き土産にシャンクリー監督は、
勇退を決意。ときに、60歳のことであった。20年間に渡るアンフィールドでの生活で勝ち得たタイトルは、リーグ優勝2度に、FA杯も2つ。そして、UEFA杯優勝が1回と意外な程に少ない。
それでも、リバプールを世界的な名声を持つチームに変貌させる基盤を築いたのは間違いなくシャンクリーの功績であった。
後を託されたボブ・ペイズリーは、50年代よりアシスタントを務めていたシャンクリーの右腕。そのペイズリーが、10年足らずで倍以上のタイトルコレクションを実現させ、欧州チャンピンオンズ・カップ獲得さえ珍しくはない出来事としたのも、前任の指揮官が創り上げた伝統が生み出した遺産とも言えるだろう。
タイトルの数だけを見れば、ペイズリーに比べてシャンクリーが些か地味にさえ感じられるが、その評価は全く色褪せることはない。
クラブを離れた後には、当然のように多くのクラブから監督就任の話も舞い込んでいたが、2度とピッチの脇に立つことはなく、心血を注いだリバプールの街を離れることもなかった。勇退を決めた年には、長年の功績を称えられ、OBE勲章も授章している。
そして、リバプールが3度目の欧州王者に輝き、絶頂期にあった1981年9月29日。シャンクリーは、心臓病のために市内の病院で帰らぬ人となる。享年68歳であった。
ヘイゼル・スタジアムで狼藉を働くレッズサポーターの姿を見ることもなく、強すぎるリバプールを見守りながら天に召されたのは、ある意味幸せだったのかもしれない。今は、憎らしいほどに強かったリバプールが戻って来ることを、穏やかに祈っていることだろう。
最後に、余りに著名なものとなった冒頭のセリフを原語のまま記しておきたい。
"Some people say football is a matter or
life and death.
They're wrong. It's much more important than
that." |
著者:らいてぃー
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