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| 2004/03/31掲載 |
| 【アリ・ダエイ】 |
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イラン国民から神のごとく崇められる英雄。アジアの枠を超えた強靭な肉体と技術に、類希なるゴールへの嗅覚。ストライカーに必要な全ての才能に恵まれたアリ・ダエイは、日本の天敵とも言うべき存在となってきた。
恐らく、日本のファンがアリ・ダエイの存在を知ったのは、1993年にカタールの首都ドーハで行われた仏W杯アジア最終予選だろう。
日本は、第2戦でイランと対戦。1-2で敗れたのだが、この時2点目を奪ったのがアリ・ダエイ。1点を追いかけ、必死の反撃を試みる日本の間隙を突き、鮮やかなカウンターから決めたゴールに日本は沈んだ。
このW杯予選では、結局6チーム中5位に終わったイランだったが、アリ・ダエイは三浦知良とともに4ゴールを挙げて得点王となり、最終予選におけるMVPもさらっていった。
アリ・ダエイが生を受けたのはイラン北部、アゼルバイジャンの国境にほど近い街、アルダビール。サッカーを始めた頃から常にFWだったアリ・ダエイだったが、その大柄な身体から、少年チームではDFを務めることも多かったという。
その少年に目を付けたのは、地元のジャバナン・アルダビール。
ここで頭角を現わすと、次はエステグラル・アルダビールに買われ、更に首都テヘランのチームへと移って行く。イランきっての強豪ピルジィでは95、96年とリーグ連覇の原動力となり、国内最大のスター選手としての地位を不動のものにする。
そして、アリ・ダエイの名に世界のスカウトが二重丸を付けたのは、何と言っても1996年のアジア・カップでの活躍から。予選グループでは、隣国イラクに敗れたものの、危なげなく準々決勝に進出。ここでは、優勝候補の一角と目された韓国に6-2という大差をつけ、完膚なきまでに叩きのめした。
この試合で4ゴールを挙げたのが、国民的英雄のセンターフォワード。
1-2とビハインドを負って迎えた後半。アジジのゴールで同点に追いつくと、そこからはアリ・ダエイのワンマンショー。特に、抜群の身体能力を活かして左から強引に切り裂いた1点目、右からのクロスに巧みなトラップから豪快なシュートを突き刺した2点目は、アジアのレベルを完全に超越しており、観る者たちの度肝を抜いた。
洪明甫や辛弘基など歴戦の勇士を並べた韓国が成す術なく敗れ去ったこの試合は、間違いなく大会で最大のインパクトを与えたものであった。ただし、イランは準決勝で予選グループで完勝していたサウジアラビアと再び対戦し、PK戦の末に敗退してしまう。それでも、破格の活躍を見せたアリ・ダエイは、計8ゴールを挙げて大会得点王に輝いた。
すると、この活躍に目を付けた欧州のクラブは、こぞってアリ・ダエイの獲得に乗り出す。いくつものオファーが来ていた中、結局、アリ・ダエイは、イラン代表での僚友バゲリと共にドイツ、ブンデスリーガのアルミニア・ビーレフェルトに移籍する。
95年に磐田が獲得寸前のところまで漕ぎ着けていたというストライカーは、かつて日本の若きエース、尾崎加寿夫が第一歩を記したクラブで新しい挑戦を始めた。
イランの選手が国外でプレーするのは、1970年代末から80年代にかけてNASL(北米サッカーリーグ)のNYコスモスなどでプレーしたサイドバック、エスカンドリアン以来のこと。加えて2トップのパートナー、アジジも1FCケルンへと新天地を求め、一躍、イランはアジアの中でも最大のタレント産出国となっていく。
だが、ブンデスリーガに足を踏み入れた1997年は、クラブでの活躍よりもW杯への挑戦がより重要な課題であった年。A組に入ったイランは、サウジやクウェートから勝点を思うように挙げることができず、2位以内を確保したのも最後の試合を終えてから。
イランが最終戦を終えたのは、11月7日。この時点では首位に立つイランであったが、12日に行われるカタール−サウジアラビア戦でサウジが勝つと、2位に落ちてプレーオフへ回ることになっていた。
そして結果は、0-1でサウジアラビアが勝利。これにより、イランはA組2位となってしまい、慌ただしくアジア3位を決めるマレーシアのジョホール・バルへと移動することになる。
11月16日。シンガポール国境に近いラルキン・スタジアムは、2万人近い日本人で埋め尽くされ、その光景は、テント村が出現した国立競技場を彷彿させるものであった。
4年前にも苦汁を飲まされている日本は、前半、中山のゴールで先制したが、後半開始直後にアジジにゴールを割られて同点とされる。そして59分、ついにアリ・ダエイのヘッドが炸裂し、逆転されてしまう。マークする中西をものともせず、右からのクロスに驚異的な打点で合わせたゴールに、蒸し暑いはずのスタジアムは一瞬にして凍り付いた。
その後、日本は城のゴールで同点に追いつき、岡野のゴールデンゴールでフランス行きを決めた一方、イランは最後の1枠をかけて更なる戦いに挑むこととなった。
結局、オーストラリアとの激闘をアウェー・ゴール2倍ルールによって制するという正に薄氷を踏む思いで2度目のW杯へ辿り着いたイラン。アジジ、バゲリ、エスティリといったタレントを揃えた中でも、アリ・ダエイの存在感は一際輝いていた。
フランス本大会ではアメリカに勝利。アジア勢として唯一の勝利を挙げたイランの実力は、この時アジアの最高位に位置しており、それがアリ・ダエイの抜きん出たタレントに因るものであることも疑う余地はなかった。
W杯を終えると、ベッケンバウアーがも惚れ込んでいたイランの英雄は、欧州でも屈指の名門バイエルン・ミュンヘンに移籍。欧州チャンピオンズ・リーグにも出場し、更なる勲章を積み重ねて行く。
しかし、エウベル、ヤンカーを始め多くのスター選手が揃うドイツ最強の軍団にあってはポジションを掴むことが出来ず、優勝を果たしたバンコクのアジア大会へ招集されるなど、ミュンヘンでの生活は順風満帆とはいかず。
翌99年からはヘルタ・ベルリンへ移籍。ここでもチャンピオンズ・リーグに出場し、ハイレベルな試合を数多くこなす中でも、自らのゴールをサポーターにプレゼントしていった。
世界随一の環境下で実力を示すと、1999年にはAFCが選出するアジア年間最優秀選手に輝く。2000-01年シーズンにはUEFAカップにも出場を果たすが、日韓W杯の予選では思わぬつまづきを見せて、プレーオフへ回ってしまう。予選開始前にはアジア・ナンバーワンの実力を持つとも見られていたが、結局、アイルランドに夢を絶たれて2回連続のW杯出場はならず。アリ・ダエイやアジジ、バゲリといったタレントの後に続く存在が余り出て来なかったこともあり、涙を飲むこととなった。
そして、欧州での挑戦を2002年に終えると、今度はUAEのアル・シャハブと2年契約を結び、イスラム圏での生活へと戻って行く。多くのイラン国民の例に漏れず敬謙なイスラム教徒であったアリ・ダエイは、欧州よりも適応しやすい環境下で今も活躍。夏には中国のアジアカップで、再び日本の前に立ちはだかることになろう。
189センチ82キロ、1969年3月21日生まれ。
所属クラブ)バンク・テイト・テヘラン〜ピルジィ〜アル・サード(カタール)〜アルミニア・ビーレフェルト〜バイエルン・ミュンヘン〜ヘルタ・ベルリン〜アル・シャバブ(UAE)
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著者:らいてぃー
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