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2004/04/21掲載
松浦敏夫
 
日本が大きな期待を寄せる大型FW平山相太。190センチの長身にして、ボールコントロールも柔らか。ゴール前では落ち着き、秀でた嗅覚も備える才能は実に類希なものである。

 過去に日本が生み出した大型ストライカーといえば、メキシコ五輪の得点王にしてJSL通算202ゴールを記録した釜本邦茂。アジアの核弾頭と呼ばれた原博実などが挙げられよう。それでも、2人とも身長は180センチ台前半。世界の中では、それ程大きい部類には入らない。

 ところが、80年代には、平山と同じく190センチのサイズを持ったストライカーが活躍していた。それがNKK(旧日本鋼管)の松浦敏夫である。

 1955年11月20日、神奈川県横浜市出身。中学時代にサッカーを始め、横浜緑ヶ丘高校を経て早稲田大学へ進む。同期には西野朗、一つ下には加藤久といった在学中にフル代表入りしたタレントを揃え、早大は黄金期にあった。1975、76年と秋のリーグ戦を連覇するなど、タイトルに恵まれた学生時代を送り、卒業後の1978年にJSL日本鋼管サッカー部の門を叩く。

 類希な大きさを持つ松浦は、JSLでも当然のように最長身の選手。
 GKでさえ170センチ台の選手がほとんどだった時代において、その高さは際立っていた。程なくしてレギュラーをつかむと、当時のエース高橋義貴とのコンビも冴え、高橋は1978年のJSLで自己最高の7ゴールをマークする。さらに2年目の1979年には、松浦自身が6アシストを記録してアシスト王まであと一歩の活躍を見せた。

 しかし、このシーズン。守備が崩壊し、リーグで最多失点を記録して9位に終わると、入替戦でもヤマハに敗れて2部転落の憂き目に遭う。

 そして、2部に落ちてからの日本鋼管は、ここから不思議な道程を辿る。まず、1980年にはチーム初のタイトルとなるJSLカップに優勝。
 2部1年目こそ1部昇格を逃したが、翌1981年には2部で優勝を果たして1部復帰を決めると、年末の天皇杯では快進撃を見せて決勝まで進出。1982年の元旦には、読売クラブを2-0で破って初優勝を遂げた。

 この間、松浦は1981年6月には森監督の初陣となったジャパンカップ(現キリンカップ)のエバートン戦でフル代表にデビュー。
 原や尾崎といった選手もいたことから、完全にレギュラー定着とまではいかなかったものの、比較的コンスタントに呼ばれ続けた。

 そんな中、1983年1月。代表合宿の臨時コーチに西ドイツ代表のDFとして活躍したベルティ・フォクツ氏が招聘される。後に母国ドイツやスコットランドをも率いることになる氏は「松浦をブンデスリーガに連れて帰りたい。」と公言。その能力を高く評価した。

 松浦はその身長からヘッドだけの選手と思われることが、多かった。
 ピッチに立つと皆が松浦を目掛けてボールを放り込み、必然的に空中戦要員のような扱いを受けていた。足元でボールを扱える選手と見られることも少なく、それが松浦の過少評価につながっていた。
 だが、フォクツは何よりゴールゲッターとしての資質を松浦の中に見出し、ドイツでも通用するスコアラーになると断言した。

 とはいえ、1部復帰もわずか1シーズンで2部に逆戻りするチームにあって、高いレベルでの経験が日常的に不足する面は、拭えなかった。
 1983年には2部で優勝。松浦自身も18ゴール6アシストを記録し、2部の得点王とアシスト王を同時に獲得。再びトップリーグへ返り咲く原動力となっていたが、森監督からの招集もメキシコW杯予選を控える頃にはなくなってしまい、いつの間にか忘れ去られた存在となって行く。

 弱小チームに所属する悲哀。1985年、チームに巣食っていたそんな空気が一変されて行く。国士大の及川浩二、京産大の田村勝善という2人のMF。筑波大からは快足FW浅岡朝泰というタレントが揃って加入。劇的にチームは変貌を遂げる。

 浅岡という日本屈指のウインガーを得た松浦は、ゴール前での仕事に専心。左からは藤代信世が上がり、中盤の及川や田村、小西理といった選手も、独力で打開できる浅岡へとつなぐパターンを忠実に実行。
 格段にチーム力が向上して来る。守備陣には田中孝司、倉又寿雄、中本邦治と新旧の代表選手が顔を揃え、ゴールマウスに立ちはだかるのは代表の守護神、松井清隆。
日本鋼管の陣容は、実にバランスの取れたものとなっていた。

 浅岡は、このルーキーイヤーにアシスト王となる活躍を見せ、松浦も一時は7試合で10ゴールというハイペースでゴールを揺らしたが、靭帯を痛めたこともあって途中でリタイヤ。
 チーム全体の経験も乏しく、若手とベテランが見事に融合した古河電工をとらえることはできず、2位に終わった。

 しかしながら、それまで5位が最高の成績だったチームにとっては、大きな躍進。これで自信を掴むと、翌1986-87年シーズンは、序盤からリーグを引っ張り、優勝は間違いないという声も聞こえていた。

 ここに待ったをかけたのが、80年代の盟主読売クラブ。ガウショ、武田修宏というフレッシュな点獲り屋がチームにフィットして来ると、前年の不振が嘘のように復活を遂げる。中盤戦以降に失速した日本鋼管に対し、読売クラブは劇的な試合を演じて首位を奪った。

 結局、優勝争いは最終戦までもつれ、先にキックオフした読売クはマツダにまさかの敗退。日本鋼管が日立に8点差大量点を挙げて勝てば、得失点差で抜いて悲願の初優勝となるところだったが、ノルマは余りにも高く、勝ち点で並びながらも再びあと一歩及ばなかった。

 とはいえ、松浦自身は14ゴールを挙げて初の得点王に輝き、浅岡も前年を上回る13アシストを記録。藤代も9ゴールと、爆発力のある攻撃陣をベースに強豪としての地位を築いた。1987年には、クラブ史上2度目となるJSLカップを制覇。残るタイトルは、JSLだけであった。

 そして迎えた1987-88年シーズン。2年連続2位という屈辱を晴らそうと、守備を強化して挑んだが、日本鋼管の攻撃力を怖れた敵が露骨に引いて来る。点を獲れないうちにカウンターに沈んだ試合も多く、アンドレ、アディウソンを擁して無敗で突っ走ったヤマハの前に三度戴冠のチャンスを逃した。

 松浦は11ゴールを挙げ、釜本、松永、カルバリオに続く4人目となる2年連続の得点王に。この時期、日本最高のストライカーは、若手から「お父さん」と慕われた巨人であることに疑いの余地はなかった。

 一人二人にマークされても動じずに合せてしまう打点の高さはもちろん、こぼれ球への反応や裏に抜け出てのシュートにも非凡なものを持っていた。そして何より、ゴールへの執着心と一瞬のチャンスにチャレンジする勇気は、格別。無用にボールをこね回したりすることもなく、締めくくりを任されている意識を常に見せていた松浦。驚異的な爆発を始めたのは30歳を過ぎてからと遅かったが、円熟の技とも言えるポストワークに、フィニッシャーとしての才能がミックスされた全盛期は、本当にブンデスリーガでの通用したのではないかと思えたほど。

 これだけの活躍をしていれば、当然のように代表でのキャリアも増して行く。石井監督の下で代表に復帰すると、ソウル五輪予選まで日の丸戦士として定着。浅岡、中本らの僚友とともに世界の舞台を目指した。

 だが、専守防衛とも揶揄された戦術を取っていた代表において、チームで見せるような輝きを松浦から見ることはなかった。
 絶対のパートナー浅岡と併用された時間もわずか。前線に1人取り残され、チームメイトが遠くでプレーするのを眺める時間も多かった。更に、武器の似通ったライバル原博実やスピードを売りとした武田、手塚聡といった存在もあり、代表での実績を思うように積み上げるには至らず。

 1988年に横山監督へバトンタッチされると、世代交代した代表から声がかかることはなかった。国際Aマッチだけで22試合に出場6ゴール。B、Cマッチを含めると65試合17ゴールという数字を残している。

 JSLでは通算193試合に出場、68ゴールで35アシスト。
NKKが1部在籍21シーズンで総得点404だったことを考えると、実に4分の1のゴールが松浦によって生み出された計算となる。

 3年連続の2位という結果から強豪の仲間入りを果たしていたNKKだが、松浦というポイントゲッターを失うと、急激に下り坂を転げ落ちる。
 2シーズンの低迷後、1990-91年には最下位となり、2部へ転落。
松浦が引退し、浅岡は読売へ。神田勝夫、望月聡などの若いタレントもJリーグの声が聞こえて来ると移籍の道を選んだ。
 1990年代に入ると、実質3部に当たる旧J2にまで滑り落ち、1993年のJ2で3位という成績を最後に廃部となっている。

 JSLのプログラムに目指す選手を「ジャイアント馬場」と記していたようにユーモアにも溢れた巨人、松浦。現在はJリーグのマッチコミッショナーとして、後輩たちの活躍を見守っている。

著者:らいてぃー 

 
 
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