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2004/07/22掲載
マッツォーラ親子とスペルガの悲劇
 
親子でアズーリの一員となった選手といえば、マルディーニを思い出す 人は多いだろう。 しかし、パオロ・マルディーニが名選手だった父チェザーレの姿を見て 育ったのとは対照的に、マッツォーラ親子は、早くに2人の距離が遠く 分かたれてしまった。

1919年1月26日、ミラノに生まれたバレンティノ・マッツォーラ。 1939年、20歳のときにベネツィアに加入。パワフルで精力的な動きを 見せるインサイド・レフトとして頭角を現し、E・ロイクとの素晴らしいコンビ を完成させて水の都を熱狂させる。

そして、3年後。親友ロイクと共にトリノへ移籍。 ここでバレンティノは、「グランデ・トリノ(偉大なトリノ)」と呼ばれるチーム の主将となり、驚異的な栄華を築き上げる。 1945年からはリーグ4連覇。アズーリに2桁の選手を送り込むほどの 陣容を誇ったトリノは、そのままイタリア代表とも呼べるチームであった。

1942年には、ジェノアでのクロアチア戦で代表デビュー。 1947年のリーグ得点王にも輝いたバレンティノは、国内屈指のスターと なっていた。

そんな背景の中、1949年5月4日。ポルトガル、リスボンでの親善試合を 終えたトリノ一行は、帰路の飛行機に搭乗していた。 まだ、航空輸送が主流ではなかった時代。旅客機の性能もそれほど高く はなく、トラブルは絶えることがなかった。

スペルガの丘に激突した飛行機。トリノのメンバー18名を含む乗員、乗客 31名は、あっという間に帰らぬ人となる。 全国民が悲しみに暮れ、国は英国人監督レスリー・ベイズリーを含む チーム全員を国葬の扱いとした。

まだリーグ戦も4試合が残されていたが、トリノはユースチームでこれを 戦い、相手もグランデ・トリノに敬意を表してユースチームを送り出した。 結局、トップチームをそっくり失ったトリノであったが、5連覇を達成。 墓前にスクデットが奉られた。

しかし、並外れた才能を一気になくした痛手は余りにも大きく、トリノと アズーリは、揃って急激な弱体化を強いられる。

前回優勝国として、予選が免除されていた1950年のW杯ブラジル大会。 イタリアも優勝候補の一角に挙げられていたのだが、本来のレギュラーを 欠いた上に船旅を選択したイタリアは、スウェーデンに敗れてあっけなく 姿を消した。

そして、更に深刻だったのはトリノ。1949年の優勝を最後にタイトルからは 遠のき、次にスクデットを掲げたのは1976年。復活までに、実に四半世紀 もの時間を要することなった。

だが、スペルガの事故当時、6歳だったバレンティノの息子サンドロは、 父の故郷ミラノですくすくと育っていた。 父から浮け継いだ類希な資質。多くのスポーツで秀でた才能を発揮した サンドロは、インテルのスカウトに迎え入れられて英才教育を受けるように なる。

10代でトップチームに引き上げられ、20歳の時にはレギュラーを獲得。 1962-63年シーズンには23試合で10ゴールを挙げ、インテルが9年ぶりの スクデットを掲げる立役者となった。 この活躍が認められ、1963年の5月12日には、ブラジル戦で代表デビュー。 イタリア国民は、悲劇の遺児が父親と同じ高みまで昇り詰めたことに、 大きな賛辞を送った。

エレニオ・エレラ監督の下、カテナチオの戦術を完成させたインテルは、 1964、65年には欧州チャンピオンズ・カップとワールド・クラブ・カップを 連覇。世界ナンバーワンのクラブにおいてサンドロ・マッツォーラの名声は、 不動のものとなっていた。

1966年には父が出場できなかったW杯イングランド大会にも出場。 チリ戦でゴールを挙げたものの、ソ連と北朝鮮に連敗したアズーリは、 面汚しと罵られ、空港で腐ったトマトの出迎えを受けた。

それまでは頑強なアタッカンテとして前線で身体を張っていたサンドロ。 1968年の欧州選手権でチーム構成上の理由からMFに転身すると、ここで 新境地を開拓する。 広い視野と鋭く正確なパスは、イタリアの中盤に欠かせないものとなり、 クラブでもポジションを替えて行く。

1970年のW杯メキシコ大会では、ファケッティ、リーバといった主軸と共に チームを牽引し、決勝進出。 ペレ率いるブラジルの前に準優勝に終わったが、イタリアの復活を印象 づけた

翌1971年には、5年ぶりのスクデットに導いた功績から、バロン・ドールの 投票で2位に入るなど、サンドロの評価は中盤で更に高まっていった。

その後、32歳で迎えた1974年のW杯西ドイツ大会にも出場。3大会連続で 晴れ舞台を踏み、アズーリでは通算70キャップで22ゴールという偉大な記録 を残した。

父バレンティノは12キャップで4ゴール。30歳の若さでこの世を去ることが 無ければ、W杯出場は確実であったし、クラブや代表で親子鷹として同じ チームの一員となる可能性もあったのではないだろうか。

著者:らいてぃー 

 
 
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