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| 2004/08/07掲載 |
| 【マジェド・アブドラー】 |
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1980年代半ばより、中東のみならず、アジアの雄として君臨してきた
サウジアラビア。
W杯には3大会連続出場。アジア・カップでも、すでにイランと並ぶ3度の
優勝を果たしている。
そのサウジアラビアで最大の英雄と言えば、マジェド・アブドラー。
「砂漠のペレ」とも称された彼のキャリアは、数多くの栄光に包まれている。
1958年、ジェッダに生まれたマジェド・アブドラーは、1977年首都リヤドの
アル・ナスルでデビュー。以後、一度もクラブを変わることなく、22年に及ぶ
現役生活を全うし、サウジアラビアに世界への扉を開いた。
イスラム教の聖地メッカに程近い紅海沿岸の街、ジェッダ。
ここで生まれたのが、マジェド・アーメド・アブドラー・モハメッド。
サッカーのコーチをしていた父を持つ男の子は、6歳までそこで過ごし、
首都リヤドへ引っ越す。それは父が、国内屈指の強豪アル・ナスルに
職を得たためだった。
父はクラブでジュニア・チームを担当。将来の金の卵を育てていた。
そんな環境に育ったマジェド。当然のように、小学校に上がる頃には、
学校や近所のチームでいつもサッカーに明け暮れていた。
小さい頃はどこでもこなしたというが、当時のお気に入りは意外にも
ゴールキーパーだったと言う。
だが、10歳の頃、試合の日にFWの選手が来なかった。そこで監督は、
マジェドをFWで起用。すると、2ゴールを挙げて3-1の勝利に導く。
以後、二度とポジションを変えることはなかった。
才能ある少年の評判は徐々に広がっていき、学校同士の対抗戦では、
多くの注目の的となる。左利きのゴールゲッターの噂は、とどまるところを
知らなかった。
国内にプロ組織が確立されていなかった当時、多くのチームがこぞって
マジェドと契約しようとした。
だが、マジェドの入りたいチームは、たった一つ。父が働くアル・ナスル。
黄色と青のユニフォームを着ることが、少年の夢であった。
当時、アル・ナスルでヘッドコーチを務めていたユーゴスラビア人の
ブロチッチは、そのプレーを数分観ただけでダイヤモンドの原石が
見つかったと言い、クラブにすぐ契約するように求めた。
1975年11月9日。17歳のときに、憧れのアル・ナスルと契約を果たす。
夢が叶い、アル・ナスルのジュニアチームに入ったマジェドだったが、
出だしは決して順調ではなかった。
近所や学校のチームをやめると言い出せず、3つのチームをかけもち。
試合のある週末は、殺人的なスケジュールをこなして複数の試合に
出続けた。
とはいえ、そんな生活にも限界が訪れ、プレーヤーとしての将来は、
アル・ナスル一本へと絞られる。
程なくして、潜在能力の高さに期待をかけたブロチッチ・コーチは、
マジェドをトップ・チームに引き上げた。
1976年にイングランドで行われたプレシーズン・キャンプ。
ここでイングランド2部リーグのチームと練習試合を組んだブロチッチは、
マジェドを初めて大人のチームに混ぜてみた。
結果は、チーム最年少のFWが1ゴールを挙げての4-0。快勝だった。
がっちりとチャンスをものにした若き天才は、この試合で怪我を負った
ものの、その力を明確に証明して見せた。
そして、年が明けた1977年1月14日。モロッコのアル・ファットを迎えた
親善試合で、初めてアル・ナスルのファンの前に姿を現す。
プレーしたのは、後半の20分だけ。余りに緊張し、存在感のないままに
試合を終えたが、1週間後のアルシャバブとの公式戦にも出場。地元の
ファンに、鮮烈な印象を残した。
初ゴールは、デビューから3戦目の1977年3月18日。後に続く532ゴール
の幕開けであった。
ルーキーイヤーの出来は上々。マジェドは街の話題となり、ファンや
マスコミ、他のチームからも特別な選手として見られるようになる。
しかしながら、チームは2位でフィニッシュ。悔しい思いも残った。
国内でのデビューを果たすと、次はやはり代表チーム。リーグ戦に
5回出ただけであったが、すぐにユース代表に選ばれる。
1977年、イランで行われた大会に参加したサウジアラビア。
残念ながら2位となってしまったが、7ゴールを挙げて得点王となったのは、
マジェド・アブドラーだった。
この活躍にフル代表が放っておくはずもなく、マジェドはすぐ上に引き
上げられ、栄光の緑のユニフォームに袖を通した。
フル代表で最初の試合は、ポルトガルの名門ベンフィカとの親善試合。
自陣でボールを受けると、2人を抜き去り、左足で強烈なフィニッシュ。
そして、もう1ゴールを決め、いきなり2ゴールをマーク。
サウジアラビアが待ち望んだ真のストライカーが誕生した瞬間であった。
1977、78年と連続してリーグで2位に終わったアル・ナスル。
それでも、マジェドを始めとした若い才能が育ってきたことで、ファンは
寛容になっていた。
マジェドはシーズンの大半を怪我のために棒に振りながらも、得点ランク
で2位に入り、才能に磨きをかけていた。
1979年、3シーズン目にして13ゴールを挙げ、初の得点王という栄誉を
手にしたが、チームはまたもや優勝を逃す。
この責任を問われた恩師ブロチッチ・コーチは解任され、若い選手たちは
非常に苦しい思いを味わう。
翌1980年、ブラジルから新しくフォルミガ・コーチがやって来ると、遂に
アル・ナスルは、4年ぶり2度目の優勝を遂げる。
序盤からトップを走り、他の追随を許さずに独走。マジェドも、17ゴールで
2年連続の得点王に輝いた。
さらに1981年。勝つ味を知ったアル・ナスルに栄華の時が訪れる。
チームはリーグを連覇。国王杯にも優勝し、国内2冠を達成。
マジェドは怪我で最後の2試合を欠場しながらも、16試合で21ゴールの
荒稼ぎをして3年連続の得点王を獲得。
同時に、アラブ諸国全体でのゴールデン・ブーツ賞もさらっていた。
この頃になると、その名声は完全に確立され、国内外での評価も
不動のものとなっていた。
もちろん、それは一人の力だけに頼ったものではない。1970年代末から
80年代にかけてのサウジアラビアには、若き才能が溢れ、飛躍的な成長
を遂げていたことも事実。
1979年の第5回ガルフカップ。マジェドが5試合で7ゴール、カタール戦
では5ゴールを記録し、歴史に名を残す。若いサウジアラビアは、優勝こそ
逃すが、多彩なテクニックを見せて将来に希望を抱かせた。
しかし、1982年のスペインW杯予選では、クウェートやニュージーランドに
敗れ、メニリ監督は、同じブラジルの英雄ザガロに取って代わられる。
とはいえ、そのザガロ監督も、1984年の第7回ガルフカップでイラクに
0-4で負けた時に即時解任となり、アル・ザヤニが代行に据えられた。
ガルフ・カップの直後に行われたロサンゼルス五輪最終予選。
マジェドは怪我。主将は出場停止。監督は経験なし。サウジアラビアに
望みはないかと思われた。
それでも、同国人監督の下で結束を強めたチームは、4試合を戦って
3勝1分。計13得点をマークする破壊力を見せ付け、初の五輪出場を決めた。
17歳の新星モハイセンが5ゴール。怪我から復帰したマジェドも6ゴール。
韓国戦では、0-2のビハインドからマジェドが2ゴールを挙げて、5-4で
劇的な逆転勝利を収めている。
だが、五輪本大会では3戦全敗。ブラジル戦でマジェドがゴールを決めた
ものの、1-3で敗退。世界の壁を思い知ることとなった。
そして、同年12月の第8回アジアカップ。サウジアラビアはこの大会に
初出場であったが、世界を経験した選手たちが成長。
瞬く間に勝ち上がり、決勝では中国を2-0で撃破。マジェドは、試合を
決める追加点を奪った。中盤でボールを受け、DFを2人かわしてGKをも
抜き去ってのシュート。これがサウジアラビア黄金期の始まりだった。
完全にアジアの先導者となったサウジアラビアは、1988年のアジアカップ
も連覇。ブラジルから招いたカルロス・アルベルト・パレイラ監督の作った
チームは、よりタフで洗練されていた。
マークの厳しくなったマジェドには苦しい大会となったが、豪快なヘッドで
イランとの準決勝で1-0の勝利に貢献。
韓国との決勝は、0-0のままPK戦へ突入したが、4-3で勝利した。
今も国内では、この時のチームが史上最強と考えられている。
国内では、1989年にリーグ制覇。1990年に国王杯を獲得。
自身も1983、86、89年と得点王のタイトルを重ねていたマジェドが残す
目標は、W杯だけとなっていた。
メキシコ大会の予選は、UAEに惜敗。最終予選まで進んだイタリア大会
の予選でも、アジア・カップ時のような強さを発揮できずに涙を飲む。
その上、1991年から1993年までマジェドは長く深刻な怪我に泣かされ、
ほとんどプレー出来なかった。
広島で行なわれたアジア・カップにも姿を見せず、年齢的にも代表から
離れるのではないかという憶測さえ飛び交った。
しかしながら、1993年の米国W杯最終予選。マジェド・アブドラーを欠いた
サウジアラビアは。隣国カタールで熱狂的な声援を背に戦い、6チーム中
唯一無敗を守ってW杯への切符をつかんだ。
数年に渡り満足にプレーしていなかったマジェド。
アメリカ行きも危ぶまれたが、国民の後押しもあって、主将として念願の
桧舞台に立つ。
ブランクもあり、ピッチに立ったのは2試合で90分ほどであったが、
オワイラン、アル・ムワリード、アル・ジャバーといった若手がチームを牽引。
オランダ、ベルギー、モロッコと同居したグループを見事に突破し、
世界に衝撃を与えた。
オワイランのスーパープレーでベルギーに引導を渡した試合が、
マジェド・アブドラーの代表におけるラストマッチ。
1977年から1994年まで実に18年もの間、常にサウジアラビアのエース
として君臨してきたストライカーは、夢を実現して後進に道を譲った。
緑のユニフォームは脱いだものの、クラブでのキャリアは終わらない。
1994年は国内リーグで1試合もプレーせず、翌年に本格復帰。
またもや、リーグ優勝の美酒に酔った。
1996、97年にはガルフ・クラブ選手権を連覇。アル・ナスルでのタイトル
コレクションを増やして行く。
そして、最後の栄光が、1998年のアジア・カップ・ウィナーズ・カップ。
準決勝で自身最後のゴールを決めて決勝へ導くと、決勝でも韓国の
水原三星を1-0で蹴散らし、有終の美を飾った。
決勝戦が行われた1998年4月12日。この日限りでスパイクを脱いだ
マジェドは、すでに40歳となっていた。
リーグ得点王6度に、記者選出のアジア最優秀選手にも3度輝いた。
五輪、W杯を経験し、代表とクラブの双方でアジアのタイトルを奪取。
言うまでもなく、アジアにこれだけの実績を持つ選手は皆無であった。
左利きだったが、両足を巧みに使いこなす。足も速く、空中での
滞空時間が長い上に、ヘッドも強かった。勇気があり、どんなボール
にも果敢に飛び込むだけでなく、独力でもゴールをこじ開ける。
冷徹なフィニッシャーにして、完璧なPKキッカー。
活躍の場は限られた範囲に留まっていたものの、そのレベルは明らか
にアジアを超越していた。
サウジアラビアでは選手の国外移籍は禁止されていたが、もし海外へ
行っていたら、更に凄みを増していたことは間違いないはず。
アリ・ダエイや車範根、奥寺康彦と同じかそれ以上の実績を残したの
ではないかと、今も言われている。
マジェドの引退後、数週間で国外移籍の禁が解かれたのは、国の
英雄が出て行かないために引き伸ばされていただけという評も立った。
「アラブのダイヤモンド」「黒いれいよう」「黄金の頭」など多くの異名を
持ち、世界では広く「砂漠のペレ」として知られている。
AFCはアジアサッカーの宝として表彰し、サウジアラビア史上最も重要な
スポーツ選手という称号も授けられた。
晩年にあたる1995年6月と1997年1月にも、AFC選定のアジア月間
最優秀選手に選ばれ、長くトップフォームを維持したことは驚嘆に値する。
当然のように熱狂的なファンも数多く、マジェドだけに忠誠を誓う者は
少なくなかった。
アル・ナスルのファンに限らず、スタジアムにマジェドを観るためだけに
足を運び、怪我などでプレーしないことが分かると、すぐにスタジアムを
去ってしまうほど。
サッカーに興味が無い人でも、TVにマジェドの姿を見つけると、腰を
下ろしてしまうと言われていた。
アラブ諸国では、多くの雑誌の表紙を飾り、新聞のスポーツ面では、
一挙手一投足が記事になる。
ドキュメンタリー映画も2本製作され、自叙伝は3冊出版された。
長い間、常にプレッシャーにさらされていたが、期待を裏切ることは
ほとんどなかった。
国際Aマッチとして認められているだけで、140試合に出場。これでも
世界第3位の記録であるが、当初の数字から7試合がFIFAによって
カウントされず、アジア蔑視という声も聞かれた。
その他、B、Cマッチでも170試合以上に出ており、代表でのゴール数
は200を超える。
キャリア通算533ゴール。国際Aマッチだけで67ゴール。B、Cマッチでは
142ゴール。アル・ナスルでは、親善試合も含めて324ゴールを挙げている。
アラブのゴールデン・ブーツ賞と、ガルフ・クラブ・カップ得点王が各々2回。
ロサンゼルス五輪のアジア予選得点王に、ガルフ・カップでの得点王も
手中にしている。
現在、アル・ナスルの背番号9は永久欠番となり、マジェドはアル・ナスル
スーパーバイザー、サウジアラビアのスポーツ親善大使として幅広い
活動をしている。
そのためか、数多くの引退試合の企画が出ていたが、未だ実現して
いない。
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著者:らいてぃー
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