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| 2004/09/08掲載 |
| 【グレム・スーネス】 |
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先月末、サーの称号を持つ名称ボビー・ロブソン監督を成績不振により解任したニューカッスル・U。新監督として白羽の矢を立てたのは、意外にも同じく下位に低迷するブラックバーンを率いていたグレム・スーネスだった。
ライバルチームからの強奪とも言える監督交代劇。Jリーグでは過去に
例の無いことであるが、欧州や南米では決して珍しいことではない。
今回もテリー・ベナブルスやゴードン・ストラカンといった浪人組の他に、アストン・ヴィラのデイビッド・オレアリー監督やバーミンガム・シティのスティーブ・ブルース監督の名が、次の候補として取り沙汰されていた。
2000年3月にブラックバーンの監督に就任したスーネス。
ディビジョン1にいたチームを建て直してプレミアリーグへ引き戻し、2001-02年シーズンにはワージントン・カップ(リーグ・カップ)に優勝。
シアラー、サットンらが活躍し、リーグ王者となった1995年以来となるタイトルをもたらした。
ブラックバーンでの仕事にマンネリ化を感じ、新たなチャレンジをする必要性を感じていたというスーネスは、ニューカッスルの次節の対戦相手がブラックバーンということもあり、来週の月曜日から監督としての仕事を始める次第となった。
今週末、スーネスの前任者でありブラックバーンの監督代行となったトニー・パークスは、複雑な気持ちでセント・ジェイムス・パークへ乗り込むことだろう。
現役時代はスコットランド代表とリバプールで主将を務め、数多くの栄光を手にしてきたグレム・スーネス。
新天地で再びタイトル・コレクションを増やすことは出来るのだろうか。
1953年5月6日、スコットランドの首都エジンバラの出身。現在、51歳。
1969年、16歳でトッテナムのアプレンティスとなり、サッカー界に足を踏み入れると、翌1970年にプロ契約を果たす。
しかし、ホワイトハートレーンでのデビューも出来ぬまま、1973年1月に
£3万の移籍金でミドルスブラへ売られてしまう。
すると、ここで頭角を現したスーネスは、翌シーズンの2部リーグ優勝に
貢献し、トップリーグへと這い上がる。
5年余りの歳月を北東部で過ごし、ボロが1部に定着する主軸となって行くと、1978年1月、ボブ・ペイズリー監督がアンフィールドへと誘う。
前年にキーガンをHSVへ売っていたリバプールは、先にセルティックからダルグリッシュを獲得し、チームの改造を行なっていたが、リーグ戦ではノッティンガムに水を開けられ、新たな力を必要としていた。
そこで中盤の軸として目を付けたのが、スーネス。
£35万の移籍金でマージーサイドへ移ったダイナモは、素早くチームに溶け込み、期待に違わぬ活躍を見せる。リーグ戦こそ、途中から無敗記録を続けたノッティンガムに譲ったが、欧州チャンピオンズ・カップは前年に続いて連覇。黄金時代へと突き進んで行く。
後ろにはハンセン、前ではダルグリッシュが暴れまわり、中盤では激しくタフなMFが手綱を引き締める。当時のリバプールは、スコットランド代表の3人が主力となって最強軍団を築いて行った。
1978-79年、1979-80年シーズンは、リーグで2連覇。
1980-81年は、欧州チャンピオンズ・カップとリーグ・カップで2冠。
翌1981年からは、2シーズン続けてリーグとリーグ・カップを獲得。
圧倒的な強さを示したリバプールは、国内のみならず世界的な強豪として認知されるようになっていた。
タックル魔とも呼ばれたスーネスは、闘争心を露わにするプレーが目を引いたものの、豊富な運動量と卓越した戦術眼に基づくゲームメイクでチームを牽引。主将としても、全体をまとめ上げていた。
1981年12月には、トヨタカップで初来日。あらゆるタイトルを手にして来たクラブに欠けていたインターコンチネンタル・カップを狙ったが、ジーコ率いるフラメンゴの前に完敗を喫した。
そして、1984年6月。スーネスは、3年ぶりの欧州王座とリーグ3連覇という偉大な記録を残して£65万でイタリアのサンプドリアへ。
世界中のスターが集結するセリエAへと新天地を求めた。
すると、移籍初年度の1985年。ACミランを破ってコッパ・イタリアを制覇。ドリアーノに、クラブ史上初のメジャータイトルをもたらした。
しかし、イタリアでの生活は早々に切り上げ、1986年にスコットランドへ帰る。グラスゴー・レンジャースで選手兼監督に就任。
新たなチャンレンジを始めた。
G・レンジャースと肩を並べる巨星セルティックの他に、ダンディー・Uやファーガソン監督率いるアバディーンが力を付けていた1980年代。
レンジャースは、9年もの間リーグタイトルから遠ざかっており、凋落が激しかった。
そんなチームをスーネスは早急に建て直し、監督就任初年度にリーグとリーグ・カップの2冠へ導く。
瞬く間に権勢を取り戻したレンジャースは、スーネスがいる間に3度のリーグ優勝と4つのカップを集中に収め、完全に復活を遂げた。
選手としてだけではなく、監督としての力量も示したスーネスに、古巣のリバプールが助けを求めたのは、そんな頃。
19914月、全てのタイトルで獲得の可能性を失ったダルグリッシュ監督が責任を取らされ、後任に座る。
スコットランド代表とアンフィールドでの僚友が追われた後、スーネスは
過去10年、全て2位以内でリーグを終えていたチームを6位という屈辱的な成績に落としてしまうが、選手時代にどうしても手が届かなかったFAカップには優勝。何とか面目を保った。
とはいえ、既に時代はマンチェスター・Uの黄金期へと移り変わっており、順位も下がるばかり。
結局、2度目の再建には力及ばず、1994年にブーツルームを後にした。
以後、1994年にはトルコのガラタサライへ渡り、トルコ・カップを獲得。
サウサンプトンの監督を務めてからは、トリノ、ベンフィカ・リスボンと国を変えて指揮を執ってきた。
ブラックバーンでは、2001年にフラムに次いで2位となり、プレミアリーグ
昇格を実現。残留を目標とした2001-02年には、トップ10に入る躍進を見せた上、リーグカップのタイトルまで手中にし、監督としての能力を改めて示した。
デイビッド・ダン、マット・ジャンセン、ダミアン・ダフといった若手が成長。アンディ・コールやマーク・ヒューズらのベテランとうまく融合したチームは、安定した戦いを続けた。
翌2002-03年にはUEFA杯にも出場し、リーグを6位でフィニッシュ。
ブラックバーンは、わずか数年間で大きな成長を遂げた。
だが、成功の継続は主力の放出を招く。資金力に長けたチームがダンやダフをさらい、チームは再編成を迫られることに。
クラブの規模からして、継続的な強化が思うように行かないチームに行き詰まりを感じていたことも確かであろう。スーネスがビッグクラブとなる意志を感じ取れるマグパイズへ移ったのも合点の行く話。
また、スコットランド代表としては、1978年のアルゼンチン大会から3回連続でW杯に出場。
1982、86年は主将として出場したものの、いずれもグループリーグ突破はならず。通算54キャップで、3得点という数字が残されている。
選手、監督として獲得したタイトルは、両手両足の指が必要となるほど。ダルグリッシュ、ハンセン、ウォーク、ニコルと共にリバプール黄金期を担ったスコッチとして、その名声は未だ翳ることはない。
リバプールを率いていた際に患った心臓が、再び音を上げないかどうか。それだけが心配な材料である。
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著者:らいてぃー
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