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2004/09/09掲載
ベトナムのサッカー
 
前半終了間際まで先制点を奪えず、停電という思わぬアクシデントにも見舞われた日本。それでも、ライバル、オマーンとの得失点差を広げることにも成功し、来月のオマーンとのアウェーゲームで引き分け以上となれば、最終予選進出が決まるところまで来た。

一方、それ以上に苦戦を強いられる戦いが続いているのが、2002年の
W杯で4位となった韓国。昨日も、ベトナムを相手に終了15分前まで1-1のタイスコアで進み、何とか李天秀のゴールで振り切ったが、レバノンとの勝点差はわずかに1。これから控えるレバノンとの直接対決を、崖っ淵に立たされた状況で迎えることとなった。

韓国とのドローにも持ち込んだモルジブに続き、もう少しで勝ち点を奪うかに見えたベトナム。東南アジアの中でも弱小国の一つに数えられていたが、今回の善戦は大いに励みとなったことだろう。

かつては「インドシナ」と呼ばれ、長くフランスの植民地とされてきた国。
1946年の独立戦争で国家としての体裁を持つに至ったが、1964年には南北に分断されて戦火の中へ。
北には中共とソ連が支援し、フランス軍が撤退した南には米軍が支援。イデオロギー対立による代理戦争となった国土は、痛ましいほどに蹂躪され、半分の森林が焼き払われ、5分の2に近い農地も失った。

50万人の一般市民が犠牲となり、北では100万、南では20万以上のベトナム兵が命を落とした。米兵だけでも6万を数える死者を出した戦争は、世界に波紋を呼び、泥沼化するばかりの情勢に多くの反発が巻き起こった。

そんなベトナムにサッカーが持ち込まれたのは、フランスの植民地時代。一人の貿易商が、船員たちの娯楽として採り入れたことからだった。

最初にサッカー協会が設立されたのは、1954年。南ベトナムとして。
同年にアジアサッカー連盟の一員となり、アジア大会にも参加している。

1964年には南ベトナムのままでFIFA加盟を果たすが、翌年2月よりベトナム戦争が勃発。スポーツどころではない時代が長く続く。1973年に和平協定が締結され。同年の西ドイツW杯予選に初めてエントリー。だが、これも南ベトナムとしてのものだった。このサブグループでは、中立地ソウルで日本とも対戦。釜本の2ゴールなどにより、日本が4-0で大勝している。

ようやく南北が統一されたのは、1976年。それから国土の復旧が開始され、1981年になってから国内リーグが整備される。

統一ベトナムがW杯予選に再び参加出来たのは、1993年の米国大会の予選。北朝鮮、カタールなどと同組みとなった一次予選ではダントツの最下位となったが、インドネシアから初勝利を挙げた際には、お祭り騒ぎとなった。

代表チームの主な活躍を挙げるとするなら、東南アジアの国々が参加するタイガーカップがメイン。1996年にはインドネシアを破って3位となり、1998年はシンガポールに0-1と惜敗したものの準優勝を果たしている。

また、アジア大会の縮小版とも言える東南アジア競技会では、1997年に3位となっているが、南ベトナムとして参加した1959年の同大会では優勝していることを忘れてはならない。

国内リーグは1996年に大幅な改革が行なわれ、今では12チームでのリーグ戦の後、上位4チームによるノックアウト方式のプレーオフが導入
されている。

主要なクラブは、1980年代に2度のリーグ優勝を果たしたコン・アン・ハイや同じく3度の優勝経験を持つカゥラク・ボー・クアン・ドイ。
これにベトナム警察やホーチミン警察、ポート・サイゴンといった辺り。
また、クァン・ナム・ダナンは、1992年のアジア・カップウィナーズカップで準決勝まで進んだ実績を持ち、(南)ベトナム・カスタムズは、国内最古のクラブとして今も存在している。

8千万に迫る人口を抱えながら、競技人口は30万人ほど。しかしながら、女子代表がアテネ五輪予選にエントリーして来たように、決して国民の関心は低くない。(日本が7-0で圧勝。)真っ赤なベトナムのユニフォームが、東南アジアにける盟主の座に近づく日も来るかもしれない。

著者:らいてぃー 

 
 
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