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2004/11/02掲載
スティーブ・パターソン
 
これまでJリーグには、世界各国から多くの選手が集ってきた。 欧州、南米のみならず、アフリカやオセアニア、中米の選手も日本で プレーし、フル代表経験者やワールドカップに出場した選手も、とっくに 珍しい存在ではなくっている。

しかし、日本リーグ時代には、日本体育協会の傘下のサッカー協会も 厳格なアマチュア規定にしばられ、プロ選手を招くことなど出来ない環境 にあった。 外国籍選手の第一号は、昨年逝去したヤンマーのネルソン吉村。 以後、ジョージ小林、セイハン比嘉、ジョージ与那城など日系の選手が、 数多く流入する一方、プロチームに在籍していた選手は、一旦、現地法人 で社員として雇用してから連れて来るなど苦肉の策を講じる必要もあった。

プロ選手が即、日本でプレーすることは禁止されており、フジタで活躍した マリーニョに至っては、セルジオ越後と行っていた少年サッカーをプロ活動と 見なされ、日産でのデビューを1年も待つこことなっている。

1980年代に入るまで助っ人外国人選手は、そのほとんどが南米から来た 選手であったが、1983年に初めて欧州国籍の助っ人選手が誕生する。

それが、読売クラブのCFスティーブン・ウイリアム・パターソン。 しかも、イングランド屈指の名門マンチェスター・Uでプレーした経歴を持つ 選手であった。

1958年4月8日、スコットランドのモレイシャー地方、エルギンという町に 生まれたパターソン。 8才で迎えたW杯イングランド大会に熱狂し、本格的にボールを蹴り始めた ものの、著名なクラブチームにスカウトされることもなく、地元のミルン高校 に通っていた。

ところが、1975年7月。スコットランドのスクール・ボイーズ・チームに選抜 されたことで状況は一変する。 宿敵イングランドのスクール・ボイーズとの1戦にセンターバックとして出場 していた選手に目をつけたのは、マンチェスター・Uのトミー・ドカティー監督。 パターソンの潜在能力に目を見張り、すぐさま声をかける。 この素晴らしい誘いを断る理由などあるはずもなく、彼は高校卒業と同時に マンチェスターへ行くことを快諾した。

1976年、18歳にして国内有数のビッククラブの一員となったものの、 超一流のチームで活躍することは簡単なことではない。 4シーズンの間にわずかで10試合に出場しただけで、トップチームに定着 することさえ難しい状況だった。

そして、1980年7月。6万ポンドの移籍金でシェフィールド・Uへ放出されて しまう。 だが、プレシーズンの練習中に足首を痛めたことからクラブは移籍金の 支払いを拒否。 マンチェスター・Uには再契約の意思も無く、契約の不履行に意義を申し 立てるのみ。本人の身分は宙ぶらりんとなってしまった。 パターソンは半ば引退状態となり、両クラブの間では長い係争が続いた。

その後、選手組合の助力もあり、翌1981年になってようやくプレー出来る 立場を取り戻すと、新たなクラブを探し始める。 ダンディー・Uには断られたものの、ピーターヘッドを経てバッキー・ズィスル でようやくピッチに立つ機会を得る。

しかしながら、スコットランドでのプレーも長くは続かず、1982年に香港の レンジャースに行き、1983年にはドカティー監督の誘いでオーストラリアへ。 シドニー・オリンピックで活躍した。

この頃には、ポジションをセンターバックから前線に移し、ポイントゲッター となっていたパターソン。 ここでの評判を聞きつけたのが、オーストラリア代表を指導した経験を 持つドイツ人、ルディ・グーテンドルフ。 翌年より読売クラブの監督に内定していた指揮官は、190センチ82キロと いう体躯で落ち着いたプレーを見せるFWに興味を持ち、日本行きを持ち かける。

当時の読売クラブは、日本リーグ初優勝を果たしたばかり。その上で、 V2を狙うチームに必要な駒としてパターソンは日本の土を踏んだ。

ブラジルのテイストの強い読売クラブに、ドイツ人の新監督というだけでも 話題となったが、パターソンに加えてユーゴスラビア人のGKシムニッチと 2人の新しい血は、それまで指定席を与えられていたブラジル人たちに強い 危機感を植えつけた。

与那城、ラモス、トレドは、プレースタイルの違いに激しく反発しながらも、 高いパフォーマンスを発揮。 日産を追いかける形でスタートしたリーグでも、レギュラーの座を明け渡す ことなくポジションを死守した。

毎週行われていた大学勢との練習試合では、非常に高い得点率を誇って いたパターソンにも全く出番は与えられず。 ピッチに立つ機会も得られぬままシーズンも終盤に突入していた。

そんな中、古河電工との試合後に乱闘騒ぎを起こしたことで、FWラモス、 MF戸塚、MF与那城、MF森と4選手が出場停止処分を受ける。 主軸の不祥事により急遽チャンスが巡ってきたパターソンは、最後の 2試合をMF川勝、DF加藤らと共に縦のラインを固め、薄氷を踏む思いで 連覇を達成した。

更に12月からの天皇杯では、ラモスが3月までの出場停止処分を受けて いたことで、大会途中に処分が解けた戸塚とペアを組み2冠を目指した。 大阪体育大学やフジタ工業には苦しんだものの、パターソンの活躍も あって古河電工と因縁の頂上決戦へと駒を進めた読売クラブ。 元旦の決勝戦では、戸塚の素晴らしいボレーで先制ゴールを奪った後、 パターソンが相手のミスを見逃さずにダメ押し。見事にクラブ史上初となる ダブル・クラウンに輝いた。

堅実なポストワークに落ち着いたフィニッシュ。ブラジル人選手のような 柔らかいドリブルは見せず、スピードに乗ったチャンスメイクに奔走する こともなかったが、安定度の高いプレーで周囲をうまく使っていた。 天皇杯では計4ゴールを挙げて得点王。高い打点で征圧する空中戦は、 非常に信頼できるものであり、ディフェンス面においても威力を発揮した。

翌1985年には、JSLカップも制覇。読売クラブは国内に敵無しの状態と なり、パターソンも出場機会を増やして3つのタイトルを総なめするのに 一役買った。

それでも、栄華は長く続かず。W杯予選で代表組のコンディションが落ち、 トレドの怪我もあってパターソンがセンターバックで起用されることも多く なったチームは、下降線を描いて行く。 結局、シーズン途中で契約の切れたグーテンドルフ監督は退任。 パターソンも後を追うように日本を去った。

その後、祖国に戻ってソーシャル・ワーカーの資格取得に励みながらも、 アマチュアのチームでプレー。 フォーレス・メカニクスに在籍した後、1990年5月には選手兼監督として 生まれ故郷のエルギン・シティをピッチ内外から牽引した。

決して高いレベルではなかったが、世界中を渡り歩いたパターソン。 その経験は指導者となってから大きく活きて行く。

1990年には、ハントリーでも選手兼監督としてハイランド・リーグ優勝に 導き、1995年設立間もないインヴァーネス・カレドニアン・ズィスルの監督 となる。 翌年、このインヴァーネスがスコットランド・カップでベスト8に残る躍進を 見せると、クラブはフルタイムのプロクラブに衣替えすることを決定する。 このため、ソーシャル・ワーカーの仕事を本職としていたパターソンも サッカーに専念することになり、本腰を入れたクラブは即座にディビジョン3 で優勝。自身もディビジョン3の最優秀監督に選ばれる。

1999年にはディビジョン1まで昇格させ、名声を不動のものとすると、 2000年1月にはスコットランドの巨人セルティックにFAカップで3-1の勝利を 収め、全国的にも広く存在を知らしめて行く。

翌季にはベルズ・チャレンジカップで決勝まで進む躍進を見せ、やがて スコットランド・プレミアシップのクラブからも引く手が来るようになる。 中でも、かつて自らを袖に振ったダンディー・Uは、熱心に誘ってきたが、 腹心ダンカン・シアラーとともにクラブと新たに5年契約を結ぶ決意をする。

とはいえ、インヴァーネスとはサラリーの問題がこじれたこともあり、その 契約書にサインしないうちに、スコットランド・リーグの名門アバディーンから 誘いがかかる。 パターソンは欧州カップ・ウイナーズ・カップをも手にしたクラブからの オファーに応じ、2002年よりアバディーンの監督に就任。今年5月まで その任にあたっていた。

トップクラブでの経験は、微々たるもの。 それでも、若いときに培った多彩な経験を武器にアマチュアのクラブから 欧州タイトルをも獲ったことのある伝統あるクラブへと昇り詰めたパターソン。 現在は充電中の身であるが、監督としての栄光は、まだ始ったばかり なのかもしれない。

著者:らいてぃー 

 
 
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