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2004/11/04掲載
インデペンディエンテ
 
欧州チャンピオンズ・リーグにおいて最も数多く頂点に立っているのは、 今では「銀河系軍団」とも称されるスペインの雄レマル・マドリー。 前身の欧州チャンピオンズ・カップ創設時から5連覇を達成したのを 手始めに、これまで計9度欧州の王座に就いている。

これに対し、南米大陸において最も栄光に包まれたクラブはどこか。 すでにトヨタカップでも3度来日しているアルゼンチンのボカJrsや神様 ペレを生んだブラジルのサントスを真っ先に思い浮かべる人もいようが、 これは外れ。 ウルグアイの名門ペニャロールも多くのトロフィーを持つクラブだし、 ナシオナル、エストゥディアンテス、サンパウロなども一時代を築いて来た。

そうした中、リベルタドレース杯を最も多く掲げて来たのは、アルゼンチン の赤い悪魔、インデペンディエンテ。 1970年代には前人未到の4連覇という偉業を成し遂げ、通算で7度の 南米チャンピオンに輝いている。

英国人の経営する商店「シティ・オブ・ロンドン」に勤務する店員が、店の クラブを脱退し、独自のクラブをつくったのが1905年1月1日。 アルゼンチン人による独立の精神を示すものとして、付けられた名称が クルブ・アトレチコ・インデペンディエンテであった。

アイルランド人がつくり、イタリア移民が引き継いだボカJrs。フランス系に よって生まれたラシン。英国系寄宿舎のチームだったロサリオ・セントラル など、他国の息がかかったクラブばかりが先に設立されていた中、独立心 をくすぐるチームの存在は、すぐに多くの支持を獲得して行く。

ホームタウンは、アルゼンチンの首都ブエノスアイレスに隣接する アベジャネダ。ここは行政的に見れば市外であるが、経済的には完全に ブエノスアイレスと一体化しており、中小の工場が密集する地区として 知られている。

当初はホームスタジアムを持たなかったが、1928年に6万5000人収容の 大箱が完成。1931年には、プロリーグ創設メンバーとなる。

最初の黄金期は、伝説のFWエリコが活躍した1930年代後半。 1938、39年とリーグ連覇を果たし、強豪の仲間入りを果たした。

そして、1960年代に入ると、クラブの名声は国境を越えて行く。 1963年に5度目のリーグ優勝を果たすと、1964年のリベルタドーレス杯に 出場。準決勝でペレのいたサントス、決勝ではナシオナル・モンデビデオ を撃破し、初の南米制覇を成し遂げる。

翌季も決勝でペニャロールを破り、インデペンディエンテは連覇を達成。 だが、インターコンチネンタル・カップでは、エレニオ・エレラが率いる インテルナツィオナーレ・ミラノの前に2年連続で敗退。 カテナチオを忠実に実行し、コルソ、マッツォーラといったタレントを擁した イタリアの名門は、厚い壁となって彼らの前に立ちはだかった。

その後、しばらくの時間を置き、赤い悪魔にとって真の黄金時代が 到来する。 まずは1970、71年と国内リーグを2連覇。常にボカJrsとリーベルの ビッグ2が鎬を削る中、割って入る様に大きな風穴を空ける。

その中心となったのは、MFホセ・オマール・パストリーサ。 ロサリオ・セントラル、コロン・サンタフェを経て1966年インデペンディエンテ にやって来たが、「チームの50%」とも呼ばれるほど攻守に多大な働きを 見せ、常に試合をコントロールする存在であった。

パストリーサを得たインデペンディエンテは、1972年、ペルーの名門 ウニベルシタリオを倒して南米王座に返り咲き、翌年からは、若きMF リカルド・ボチーニとFWダニエル・ベルトーニという希代のタレントを擁して タイトルを守り続ける。

1973年はチリのコロコロ、1974年にはサンパウロFC。いずれ劣らぬ 各国の名門もインデペンディエンテには歯が立たず。 赤い悪魔の栄華は、長く崩れることがなかった。

とはいえ、南米の覇権を守り続ける一方で、パストリーサはモナコへ。 ベルトーニはナポリへと旅立ってしまい、手の内を知られやすい国内では 苦戦する。 南米王座を取り戻した1972年は11位。翌1973年も優勝争いに加わる ことの出来ないまま4位に終わり、1974年にも7位へと後退している。

しかしながら、無類の勝負強さを発揮したコパ・リベルタドーレスでは 1975年まで破竹の4連覇。同国のライバル、エストゥディアンテスが保持 していた3連覇の記録をあっさりと塗り替えた。

勿論、インテルに阻まれて手に出来なかったインターコンチネンタル杯 の獲得にも成功。1973年、イタリアの恋人ユベントスを相手に唯一の得点 を挙げたのは、「ボチャ」の愛称で親しまれた生え抜きのボチーニだった。

だが、南米と欧州による世界王者決定戦は、出来て間もない1960年代 から不穏な空気を呼び起こすものとなっていた。 1967年のセルティック対ラシン戦。7人もの退場者が出る荒れた試合と なったのを皮切に、著しくヒートアップ。 大陸間の移動が難しい時代であったため、サポーターによる大規模な 衝突こそ生まれなかったが、スタンドの空気は常に殺気立ち、ピッチの 上では危険なプレーが横行した。

1969年にACミランと対戦したエストゥディアンテスの選手は、暴行容疑に よって警察当局が収監してしまったほど。 こうした経緯から、1971年の欧州王者アヤックスが大会への出場を拒否。 1972年以降にインデペンディエンテが対戦した中で、真のチャンピオンは アヤックスだけで、1973年のユベントス、1974年のアトレチコ・マドリーは 代替出場のチームであった。 しかも、1975年の大会はバイエルン・ミュンヘンに日程の調整がつかない という言い訳をされ、開催にも至らず。

そんな時代を生きた赤い悪魔は、いつしか欧州ではダーティーなイメージ を植え付けられ、文字通りに「悪魔がやって来る。」と書き立てられることも 珍しくはなかった。

その後、フランスに渡っていたパストリーサが1977年に現役を引退し、 古巣へ戻って来る。アルゼンチン代表50キャップ、クラブでも数々の 栄光に導いたカリスマは、監督としても一流であることを証明する。 1977、78年とパストリーサ監督で全国選手権を連覇。ファンは英雄の 帰還に喝采を送った。

更に、一度は退任していたパストリーサが1983年に再び監督に就任 すると、1984年には久方ぶりのリベルタドーレス杯を獲得。 決勝では一度も負けたことがないジンクスを守り抜き、東京に場所を 移していたトヨタカップにやって来た。

当時の主力は、アルゼンチン代表のMFホルヘ・ブルチャガやクラブ一筋 に10年以上を過ごしてきたボチーニ、クレバーなCBエンソ・トロセーロ。 翌年のW杯優勝メンバーとなるリカルド・ジュスティ、ネストル・クラウセンと いった実力者が数多く揃っていた。

前回のタイトルが欧州2位だったユベントスを破ってのものだっただけに、 並々ならぬ決意で挑んだ東京での決戦。 リバプールには欧州ゴールデンブーツ賞のFWイアン・ラッシュもいたが、 19才の新鋭FWペルクダニの一発により、インデペンディエンテが勝利した。

しかし、この試合でキーマンとなったのは、ブルチャガでもなくボチーニ でもなかった。アシストのパスを供給した、クラウディオ・マランゴニ。 サン・ロレンソの一員として来日した際に、イングランドのスカウトが目を 付けたMFは、日本での活躍が縁となりサンダーランドでもプレーしていた。 イングランドのスタイルを知り尽くした選手の存在が試合を決め、 真の世界一の称号をクラブにもたらした。

インデペンディエンテが、過去に輩出した有名な選手は数知れず。 1994年のW杯にはGKルイス・イスラスとFWウーゴ・ペレスを送り込み、 1992年に来日した代表には、MFディエゴ・カーニャもいた。

近年ではパラグアイ代表のDFカルロス・ガマラにMFロベルト・アクーニャ、 コロンビア代表のGKファリド・モンドラゴンなど周辺諸国のタレントも在籍。 ウルグアイ代表のFWディエゴ・フォルランをマンチェスター・Uに売った ように、欧州へ買われる前の才能を手に入れることが多い。

今季よりインテルに移籍した代表のMFエステンバン・カンビアッソも レアル・マドリー在籍時の1998年から2001年までの3年間、レンタルでプレー している。

来日は計6度。最初は1977年で、ジャパン・カップに参加している。 1984年のトヨタカップ、1994年のレコパ・ファイナルではビッグタイトルを 持ち帰っている。 1994、1995年とレコパ・ファイナルで連続して来日した当時は、中盤に 豊富な人材を揃えており、MFグスタボ・ロペス、セバスチャン・ランベル などを代表に送り込んでいた。

これまでに獲得したタイトルは、国内リーグが12回で全国選手権は3回と、 国内だけで15個。 国際タイトルもコパ・リベリルタドーレスの7回を筆頭に、スーペル・コパが 2回で、コパ・インテルアメリカーナも1970年代に3回獲得している。 これに2回のインターコンチネンタル・カップとレコパ・ファイナルも加えれば、 こちらも15となる。

1990年代からの深刻な経済危機や頻繁な人材の流出もあり、かつての ような黄金時代を取り戻すことは難しいだろうが、エスタディオ・コルデロに 詰め掛けるファンは、必ずや復権を遂げてくれると信じていることだろう。

著者:らいてぃー 

 
 
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