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| 2004/11/13掲載 |
| 【関塚隆】 |
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監督就任1年目にして、記録的な強さで川崎フロンターレをJ1復帰へと
導いた関塚隆監督。
当初より複数年契約を結んでいた通りに、来期の続投もすでに決定
済みであり、前回は果たせなかったJ1定着を目指す。
1960年10月26日。関塚は千葉のサッカーどころとして名を馳せる
船橋市で、日用雑貨問屋の次男として生まれた。
小学5年生でサッカーを始めると、中学校では関東大会に出場する
ほどの実力を備える選手に。
当時の千葉県で最も権勢を誇っていたのが、名将西堂就監督の率いる
市立習志野。すでに全国高校選手権でも2度の優勝を飾っており、千葉の
高校サッカー界においては、代名詞的存在であった。
だが、関塚が中学3年生の時、隣市の新興勢力、八千代が初めて冬の
全国高校選手権へと駒を進める。
伝統校への憧れを持ちながらも、新たな力の台頭に魅力を感じた関塚
はターゲットを変更。進学校でもある八千代に進むことを決め、猛勉強の
末に合格を果たす。
初の選手権出場に触発されて集まったのは、関塚だけではなく、県内
から精鋭たちが集結した八千代。
青木克巳監督は、優秀な1年生が大挙して入学して来たことを見て、
3年計画でチームを育てる計算を立てる。
1年時こそ全国大会には縁がなかったが、県の新人戦には優勝。
監督の思いは確信へと変わる。
関塚と同じ多くの2年生が多くレギュラーに抜擢された2年目の夏には、
インターハイ出場を果たすが、選手権は習志野の厚い壁に阻まれて
手が届かなかった。
だが、上級生が引退すると新人戦で連覇(のちに後輩が7連覇)を飾り、
栃木で行われた関東大会でも地元の宇都宮農を破って優勝。
更には、2年連続して出場権を獲得したインターハイで準優勝に輝く。
この頃には八千代が全国屈指の実力を備えるチームとして認知され、
ウインガー関塚の名も注目を集めるようになっていた。
そして、最大のターゲットにしていた冬の選手権でも茂原工業を破り、
3年ぶりに全国への切符を勝ち取ると、島原商業、四日市中央工業と
いった全国大会の常連校を撃破し、準決勝まで昇り詰める。
ここで優勝した茨城の古河一に1-3で敗退となるが、大会優秀選手にも
得点王となった高田敏など4人が選出され、見事に3年計画は結実した。
全国大会での華々しい活躍もあって、関塚の元にも幾つかの大学から
誘いの声がかかる。
だが、彼自身が行きたい大学は、ただ一つ。早稲田のみであり、推薦も
得られず、一般受験にも失敗してしまう。
早稲田に目標を定めて浪人生活に入った関塚は、OBとして高校の練習
にも顔を出しながらも一年後、念願の都の西北へ。
部員の多くが現役の推薦入学者で占められていた早稲田大サッカー部。
同い年の人間を先輩と呼ばねばならないことに反発心を持ちながらも、
その実力を発揮していく。
但し、大学サッカー界は群雄割拠の時代。筑波や国士舘の前にタイトル
奪取を阻まれ、関東大学リーグでは3年、4年と連続で2位に終わり、
決勝進出を果たした3年次の大学選手権でも準優勝。
常にあと一歩の所で涙を飲んだ。
そして、憧れだった大学を卒業。関塚が大学3年の時まで早稲田を
率いていた宮本征勝監督が本田技研へ移っていたことから、2人のチーム
メイトと共に入社を決意。
1981年に1部昇格を果たしたばかりの若いチームに身を置き、日本リーグ
に挑戦することとなった。
前年度、18試合で17ゴールと得点力不足に喘いでいた本田技研は、
関塚というタレントを加えて一躍台風の目に。
1984年シーズンは、総得点26を記録し、過去最高の5位まで上昇。
勿論、その原動力となったのは、宮本監督が連れてきた若きストライカー
だった。
176センチ70キロ。体格的にはそれほど恵まれていた訳ではないが、
新人らしく思いきりの良さを見せて、遠目からでも積極的に狙う姿勢は、
ゴールの数以上に相手への脅威となった。
特にゴール前での判断が良く、トラップしてからの選択肢を迷うことなく
パスとシュートを使い分け、チームメイトの信頼を勝ち得ていった。
関塚は11ゴール4アシストという立派な成績を挙げて、新人王に輝く。
新人としてのゴール数は、1967年の釜本邦茂(ヤンマー、14ゴール)、
1976年の碓井博行(日立、13ゴール)という早大の先輩たちに次ぐ
歴代3位の数字。
またもや早稲田出身の本格派ストライカーが出現したと話題になった。
翌1985年は、神戸で行われたユニバーシアードが最大の見せ場に。
MF鈴木淳、GK松永成立、FW浅岡朝泰など個性の強いメンバーの中、
クラブでの同僚でDFの勝矢寿延らと共に堅実で計算できる戦力として
見なされていた関塚は、アメリカ戦、メキシコ戦で1ゴールずつを挙げて
グループリーグ突破に貢献。
FKからの強烈な一撃や果敢な突破からのフィニッシュに、神戸のファン
も熱狂した。
残念ながらウルグアイに決勝への道を絶たれ、3位決定戦でも中国に
敗れた日本。メダル獲得はならなかったものの、ホスト国として確かな
足跡を残した大会となった。
神戸での貴重な経験を持ち帰ったユニバー組の活躍もあり、本田技研
は更に上昇気流を描く。
1985年シーズンは古河電工、日本鋼管に次ぐ3位に食い込み、メキシコ
W杯予選には、本田技研から初めてのフル代表選手として勝矢が参加
した。
関塚も2年連続して2桁得点を記録し、完全にチームの顔となって行く。
以後、一時的に成績は下降するが、佐々木や北沢、本田、黒崎、
石川、長谷川といった才能豊かな若手が続々と入社。
1990‐91年シーズンには再びトップ3に返り咲く。
ところが、会社はJリーグへの参加を断念し、主力が大量に退部。
若手にポジションを奪われていた関塚も、30才を越えたことなどから、
最後の日本リーグを前に現役を引退する。
同時に本田技研を離れ、母校早稲田大でコーチを務めた後、1993年に
再び宮本監督に誘われて鹿島アントラーズへ。本格的にプロの指導者と
なる道を歩み始める。
鹿島ではJリーグ初代王者となり、1995年には三度宮本監督を追って
清水エスパルスに移るが、宮本監督の退任により鹿島へ復帰。
1997年にはS級ライセンスも取得し、1998年7月と1999年12月には
監督代行として鹿島を率いた経験も持ち合わせる。
そして、今季より川崎フロンターレの指揮官となり、大きな花を咲かせた。
チームはファミリーとしたジーコや、情熱家であった宮本氏から大きな
影響を受け、トニーニョ・セレーゾやジョアン・カルロス、ゼ・マリオといった
歴代の監督からも多くのことを吸収。
長いミーティングで意識の徹底を図り、長いシーズンを戦える身体づくり
には妥協を許さなかったと言う。
常勝軍団の鹿島を作り上げた影の功労者。史上最速の昇格を成し
遂げた手腕がJ1でも発揮されるのか。
マルクスやジュニーニョなどmJ1でも十分に通用する外国人選手を抱える
だけに、来季の川崎を決して侮ることは出来ない。
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著者:らいてぃー
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