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2004/12/02掲載
【クウェートのサッカー】
 
来年2月から予定されているドイツへの道程。12月9日のドロー決定を前にシード枠順による対戦日が発表された。

韓国と共に第1シードとなっている日本は、初戦となる2月9日をホーム ゲームとして第4シードのチームを迎える他、最終節の8月17日もホーム で開催出来る(対第2シード)という恵まれた日程。6月に控えるアウェーの連戦中にも、ドイツへの切符を手にすることが期待されている。

これで日本の初戦は北朝鮮かクウェートになった訳だが、クウェートはアジア最終予選に進出したチームの中で唯一日本が勝利した経験を持たないチーム。

情報が少なく未知数の北朝鮮も不気味だが、前大回の出場国、中国を 競り落としたクウェートも十分な警戒に値するチームであろう。

アラビア半島の根元。サウジアラビアとイラクに挟まれた位置にある クウェートは、アラビア語で「小さな砦」の意。 18世紀に南部から移り住んだ部族が今日の基礎を造り、19世紀からは 欧州列強の影響下に。

1899年に英国の植民地となった後、1914年に英国の独立州となったが、 国民国家としての誕生は1961年まで待たねばならなかった。

長く独立が阻まれてきたのは、1938年に発見された大油田のため。 石油がもたらす莫大な権益を手放すことに躊躇した英国の思惑は、 中東地域に様々な圧力を加え、多くの不安定要因を作り出していた。

原油の埋蔵量は世界の10%近くに達しており、世界で5本の指に入る オイルマネー国家。 石油収入による国家建設は、街並を驚くほど近代的なものへと変え、 総人口の半分以上を出稼ぎ労働者などが占める形とした。 四国とほぼ同じ面積に住む人々は240万いるが、その内クウェート人は 100万にも満たず。全人口の4割以下というクウェート人が要職に就いて、 豊かな国家の恩恵を享受している。

英国の支配下にあったため、サッカーがもたらされた歴史も古く、 20世紀に入る前からボールを蹴る人の姿が記録されている。

とはいえ、サッカー協会の設立は1952年。FIFAに加盟したのは、10年後 の1962年で、W杯予選へのエントリーは更に10年以上を要して1974年の 西ドイツ大会から。

それでも、クウェートのサッカーが発展を遂げるのに、多くの時間は必要 とされなかった。 古くから英国人のみならず、南米からも指導者を招いていたことで、 その実力は一歩抜きん出たものに。 まず1970年から1976年までのガルフ・カップを4連覇して、中東の盟主に 昇り詰めると、1980年代前半まではアジア全域をまたにかける黄金時代が 到来する。 初期の英雄は、109のキャップ数を誇るワタル・スライマン・アル・ハバシ。

1976年にイランで行われたアジア・カップに準優勝を果たすと、1980年 にはモスクワ五輪に出場。ベスト8に進出という快挙を成し遂げる。 更に、同年のアジアカップではホスト国となり、見事、国民の期待に応える 初優勝。アジアの頂点に昇り詰める。

そして、W杯スペイン大会を目指したチームは、一次予選で韓国を一蹴し、 最終予選ではニュージーランドや中国にも競り勝って一位通過。 悲願のW杯初出場を決める。

1982年、待ち焦がれた本大会では、初戦のチェコスロバキア戦で1対1の ドロー。いきなり勝点を挙げて周囲を驚かせた。 ブラジル人のカルロス・アルベルト・パレイラ監督は、続く試合にも自信を 見せたが、フランスに1-4、イングランドに0-1と連敗して大会を去った。

その中で、4失点を喫したフランス戦は、大きな話題となった試合。 フランスのジレスが4点目となるゴールを入れた際、クウェートのサッカー 協会の会長でもある王子がオフサイドだと猛抗議。 自らスタンドを降りて行き、ピッチにいた選手を引き上げさせてしまった。

前代未聞の事態にソ連のストパール主審は、この抗議を認めてゴール を取消し。フランス側はあっけに取られたが、結局、終了間際にボッシが 2度目となる4点目を挙げてケリをつけた。

当時の主力は、チェコスロバキア戦で素晴らしいミドルショットを決め、 貴重な勝ち点をもたらしたストライカー、ファイサル・アル・ダヒル。 腰の低い体勢から振り抜く強烈な右足が最大の武器で、その得点力は アジアのレベルを超越していた。

また、中盤にも攻撃的なアル・ブルーシ、主将を務めていたアル・フチと いったタレントが揃っており、バランスの取れた構成となっていた。

このチームは、1982年のアジア大会で準優勝した他、ガルフカップにも 優勝。W杯、五輪、アジアカップなど全ての大会で好成績を収め、同国の 歴史に名を残す偉大なチームであった。

数々の栄光を手にして来た黄金の世代。彼らが衰えを見せ始めると、 さすがに停滞が始まってしまう。 サウジアラビアや韓国の台頭もあってアジアの盟主の座を譲ると、 1990年8月にはイラクに侵攻され、国土は戦火の中へ。 湾岸戦争の勃発により、スポーツどころではない情勢に巻き込まれる。

先に制していたガルフカップを最後に1990年以降、代表チームの編成 にも苦しむ時期を過ごす。

そんな苦境を救ったのが、チェコの名将ミラン・マチャラ監督。 197センチの長身FWモハメド・アル・フーウェディをトップに置き、左利きの 司令塔バデル・アル・ハラビがゲームをコントロールするカウンタースタイル を完成させ、1996年のガルフカップで3大会振りに王座を奪還。 その勢いを買って挑んだUAEのアジアカップでは、前大会の覇者、日本を 見事に沈めてベスト4に進出した。

CFアル・フーウェディは、イランのFWアリ・ダエイを彷彿させるバランスの 取れたストライカーで、高さと足元のプレーがうまくブレンドされた選手。 1996、98年とガルフカップ連覇を飾ったチームにおける絶対的存在で、 ミラン・マチャラ監督のカウンターサッカーを高次元で熟成させるキーマン となった。 1998年のガルフ・カップでは、5試合で9ゴール。欧州への移籍も囁かれた ほどであった。

湾岸戦争の大きな痛手を乗り越えたクウェート。 アジアで復活の兆しを見せた後は、世界の舞台へ。日本、韓国とともに シドニー五輪本大会にも出場。久しぶりの桧舞台に立つ。

残念ながら、アテネ五輪の予選では自国を侵略したイラクに敗れて2大会 連続出場とはならなかったが、サウジアラビアにアウェーで勝つなど、中東 の雄としての名に恥じないチーム力を見せていた。

国内リーグは1962年に開始され、現在は14チームがトップリーグを構成 している。 1980年前後の黄金時代にあっても協会への選手登録者は3,000人ほど しかおらず、決して層が厚い訳ではない。

1960年代から数々のタイトルを獲って来たアル・アラビが一番の伝統を 持つクラブで、これに198年代後半のアジア・クラブ選手権で活躍した アル・カズマ、1989年のアジア・カップ・ウィナーズカップで準優勝している アル・クウェートといった辺りが強豪の部類。 近年では、アル・フーウェディを輩出したアル・サルミヤも上位の常連と なっている。

日韓大会の予選では急激に力をつけて来たバーレーンに屈して夢を 絶たれたが、2002年の西アジア大会に優勝して新たな時代を作り始めた。

近年ではパラグアイ代表の監督を務めたブラジル人のカルペジアーニや ユーゴスラビアのラドイコ・アブラモビッチなども招聘し、チーム力の向上に 務めている。

アブドゥラ・ワブラン、モハメド・ファハドといった中盤のタレントに加え、 バシャル・アブドラーといった新しい点取屋も出て来たが、今年初めに 行われたガルフ・カップでは7チーム中6位と低迷。 カルペジアーニ監督は、チームを再度刷新させる必要に迫られた。

予選で3得点を挙げたアル・ムタワにファラ・サイードらが一次予選で 大きな成長を遂げ、バシャル・アブドゥルアジズが今もチームの核となる。 ヤコブ・アブドゥラーの攻撃参加や独特のリズムを持つワリード・ジャマー にも注意は必要だろう。

上から青・白・青のユニフォームは、日本と同じ。 第1戦では日本がファーストキットを着るため、アウェー用を選択すること になるクウェートだが、10月から5月という欧州と同じシーズンでプレーする 選手たちは、コンディションも万全のはず。 サウジアラビアやカタールなど国外でプレーする選手も、本国との時差が ないため、チームに合流しやすい。

確実に勝点1を狙いに来るチームに対し、日本は勝利への重圧とも戦う ことになる。 シンガポール戦のような寒い試合をしていては、みすみす勝点を奪われた ままに帰す可能性もあろう。

著者:らいてぃー 

 
 
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