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| 2005/01/26掲載 |
| 【ホームでアウェーを体感した日】 |
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冷たい雨が降りしきる中、千駄ヶ谷駅の改札を抜けて国立競技場へ。
1985年3月21日、午前7時。千駄ヶ谷門に人影は皆無だった。
W杯メキシコ大会を目指す日本代表は、1ヶ月前にシンガポールとの
アウェーゲームを木村和司の全得点に絡む活躍もあって、3-1で快勝。
幸先の良いスタートを切っていた。
そして、迎えたホームでの初戦は、難敵北朝鮮を迎え撃つもの。
過去3戦して、1分2敗。勝利どころか、1ゴールも奪ったことのない日本に
とっては、余りに大きな壁と考えられていた。
北朝鮮代表の来日は、初めてのこと。1974年に軍のチームである平壌の
4・25が北朝鮮のチームとして初めて国立競技場に足を踏み入れた際には、
4-0で日本を一蹴して帰っていたほど。
1982年のニューデリー・アジア大会において暴力事件を起こしたため、
2年間の国際試合における出場停止処分を受けていたことを考慮しても、
日本がそう簡単に勝てる相手とは見なされていなかった。
前夜から続く強い雨足。冷雨の中で待ち続け、次の人が来たのは1時間
近くが経ってから。
どんよりした雨空の中、当日券売り場が開いた際にも開門を待つ人の
数は二桁に留まり、後ろを振り返って数えられる程度。
開門までの間に競技場の周囲を回ってみると、青山門にも人はいたが、
どうも雰囲気が違う。近くを通ると、日本語と朝鮮語が両方聞こえて来る。
国際試合を実感させる空気。決戦の意識が高まりを覚えた。
足先まで凍てつく中、開門と同時にメインスタンドの屋根がかかる部分に
席を求めて気の早いサポーターが即陣取る。
一番始めに埋まって行ったのは、屋根に守られたメインスタンドの両端。
今とは違い、指定席がメインスタンドの中央部だけに設定された中、雨の
入り込まない席に続々と腰を下ろす人々。顔立ちは、みな同じ。
少しでも良い席を確保したい人々が通路を行き交うものの、日本語を話す
声はほとんど聞こえて来ない。そこは明らかに日本ではなかった。
メインスタンドの両端だけが、開門時刻を目指して詰め掛けた人々で
埋められる一方、バックスタンドでは赤と青の北朝鮮カラーで彩られた
横断幕が次々と張られて行く。
赤・白・青の長い横断幕。ハングル文字が並び、何が書いてあるのか
分からないものが多い中、朝鮮銀行などの漢字も見える。
星のマークが入った大きな北朝鮮国旗がバックスタンド中央に次々と
降りて行き、数少ない日の丸は、その中に埋もれてしまう。
バックスタンドは完全に北朝鮮応援団で占められた感じがした。
キックオフは14:00。雨の中でチアホーンが鳴り響き、白いユニフォーム
を着た日本が、真っ赤な北朝鮮に挑む。
程なくして、「イギョラ!」の大合唱が始まる。バックスタンドには、確かに
日本のサポーターもいるのだが、多勢に無勢。
出ているはずの「ニッポン!チャ・チャ・チャ」のフレーズもかき消され、
在日同胞で固められたアウェーチームの応援だけがこだまする。
しかし、国立競技場のピッチに現れた際に「ここはアウェーだと思った。」
と語った水沼を始め、日本の選手たちはこの逆境に燃えていた。
20分、北朝鮮のパスミスから西村がボールをカットすると、ゴール前へ
放り込む。ボールは、CBムン・グァンオクの目の前にある水溜りに落ちる。
これを原が拾い、ボールを浮かせてムン・グァンオクのタックルをかわし、
GKキム・ガンイルが出て来たところを冷静に右足のインサイドで流し込む。
後に、原が「木村が、人のゴールであんなに喜んだのは初めて見た。」
と回想した程に貴重な先制ゴール。アシストの西村に木村や水沼たちも、
即座に駆け寄って歓喜の輪を作った。
これで流れをつかんだ日本は、35分にも右CKから木村がボレーショットを
浴びせるなど良い形で前半を折り返す。
後半、体力的なアドバンテージを活かした北朝鮮が1点を追って猛攻を
仕掛けてくる。
もともと、キープ率は明らかに北朝鮮の方が上。とはいえ、軟弱なピッチを
意識し過ぎたのか、シュートは強振するばかりで枠を捉える正確さは無し。
パスを出してもすぐにボールが止まるため、深く攻め入ることも出来ず、
アーリークロスを多用しては、石神や加藤に跳ね返される。
北朝鮮が前掛かりになることで、日本にもチャンスが生まれる。
水沼が右サイドを突破し、ゴール前の原につなぐが、GKの好守にあって
追加点は奪えず。
それでも、守護神の落ち着いたプレーであれば、松井に軍配が上がる。
足元の悪い中でも果敢に前へ出て、クロスボールに抜群の安定感を発揮。
フィニッシュに持ち込まれても決して逃げることなく、間合いを詰めながら
コースを狭める冷静さを見せていた。
だが、68分。左サイドを崩され、ハン・ヒョンイルのクロスからユン・ジョンス
がボレーシュート。日本のネットが揺れ、追いつかれたかに思われたものの、
これはハン・ヒョンイルがオフサイド・ポジションにいたため、ノーゴール。
スタンドが大きくどよめく。
終盤、北朝鮮のキム・ギョンイル監督は、前線で待ち構える人数を増やし、
徹底してゴール前に放り込むように指示。
日本は必死の防戦。西村と宮内がDFラインのすぐ前でプレーし、柱谷や
水沼までもがタッチライン際でクロスボールをブロックしに行く。
そして、そのままスコアは動くことなく、タイムアップの笛。
満面の笑みを浮かべる主将の加藤を始め、喜びを身体全体で表す松木
や都並。
この勝利が如何に大きなものであるかを物語るのは、試合終了と同時に
ブーイングともいえない不穏なうめき声を挙げたスタンドの空気も同じだった。
平壌は厳冬。そのため、普段は人工芝の金日成スタジアムで練習して
いたという北朝鮮は、パスも思うようにつながらないピッチに苛立つ様子が
伺えた。
運動量やパススピードで上回ると見られた敵の長所は、天の助けが
消し去り、日本にラッキーなゴールをもたらした。
ホームでありながら、敵の応援が勝るという厳しい環境下。
「イギョラ」の声ばかりが四方から聞こえて来る中、ただでさえ大人しい
日本サポーターの多くは、黙って異様な雰囲気に身を委ねていた。
発表された観衆は2万5,000人。体感的には、2万人以上が在日朝鮮人
だったような気がする。
メキシコ大会のマスコット、ピケのイラストも入ったチケットは、一般前売り
で1,500円。メインスタンドの一部にしか設けられていなかった指定席でも
3,000円だったが、JFAが販売促進に力を入れた様子はなし。
神宮外苑周辺の施設や駅でポスター、ちらしなどを見かけることさえ
なかった。
後に親しくなった在日の友人から、朝鮮学校等ではポスターが張り出され、
朝鮮総連を通じてチケット販売の通知が来ていたことも聞かされた。
都並は「冗談でもいいから試合を観に来て欲しい。」と訴え、クールな木村
でさえも「アウェーのようで悔しかった。」と吐露した程に逆転した光景の
スタンド。
専門誌では大きな問題として取り上げられたが、足を運ばなかったファンを
責めることが出来ただろうか。
メキシコ五輪を境にして、一度も世界への扉を開けられず。ロス五輪予選
でも惨敗を喫した日本。W杯は夢物語の世界であり、違う次元の話だった。
日本リーグでは1,000人と集まらない試合も珍しくなく、読売クや日産だけ
がかろうじて熱心なファンの興味をつきつける存在。
その中で、国立競技場が多くの日本サポーターで埋まるなど、考えられる
はずもなかった。
何十万もの人々がチケット争奪戦に参加する今では信じられないだろうが、
日本代表の試合に対する関心など、スーパースターを目玉にした興行試合
以下であることも普通だった時代。
森政権下の日本代表は、ホームでアウェーを体感するという逆境にも
負けず、韓国との最終決戦まで駒を進めた。
今思い返すと、W杯への夢を見た始まりは、敵の声援に支配された国立
競技場だったのかもしれない。
1985年3月21日 W杯メキシコ大会予選 アジア第4組グループB
日本1(1-0/0-0)0北朝鮮
得点者:原(20分、アシスト西村)
日本
GK 松井(日本鋼管)
DF
松木(読売ク)、石神(ヤマハ)、加藤(読売ク)、都並(読売ク)
MF
西村(ヤンマー)、木村(日産)→(平川/順大)、宮内(古川)
FW
水沼(日産)、原(三菱)、柱谷幸(日産)
北朝鮮
GK キム・ガンイル
DF
キム・グァンウン、オ・ヨンナム、キム・ジョンフン、ムン・グァンオク
MF
リ・ジョンマン、ユン・ジョンス、キム・ヨンナム(タク・ヨンビン)
FW
ハン・ヒョンイル、キム・ジョンマン、キム・ガンホ
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著者:らいてぃー
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