| |
| 2005/01/28掲載 |
| 【1989年W杯イタリア大会予選回顧録】 |
| |
前回のW杯メキシコ大会予選。森監督の下、韓国との最終決戦まで残った
日本は、続く1987年のソウル五輪予選でも中国に惜敗。
あと一歩のところで世界に出て行く機会を逸していた。
石井監督の下で堅守速攻の形を推し進めた代表チームは、極端なまでの
守備偏重型となり、攻撃はツートップ・プラス・アルファに頼るだけ。
堀池、武田といった若手の成長もカンフル剤とはならず、西ドイツから帰国
した奥寺の経験も十二分に活かされることはなかった。
多くの攻め手を持たず、守るしかないチームの限界が声高に叫ばれ、新たに
代表チームを任された横山監督は、大幅な改造に着手した。
まず、絶対的な存在であった加藤久(読売ク)を外し、復調しつつあった
木村や柱谷幸にも声をかけず。
欧州で流行っていた3-5-2のフォーメーションを代表に取り入れ、大胆な
世代交代を推し進めると共に、FWの選手をウイングバックに起用するという
意外な用兵を見せる。
そこでテーマとなったのが、縦へのスピード。瞬発力に長けた選手を並べ、
サイドアタックを重視したカウンタースタイルの確立を目指した。
だが、ウイングバックを使った戦術がJSLにも浸透していなかった時代。
FWの選手が縦に狭いスペースを割り当てられた上、守備面でも多くのこと
を求められるシステムは、ほとんど機能することがなかった。
しかも、若返ったDFラインは不安定であり、司令塔となる選手も日替わりで
チームの幹が固まるには程遠い状態。
大きな不安を抱えたままに、イタリアへ向けた挑戦を始めることとなった。
一次予選で同組となったのは、前回のメキシコ大会予選でも当たった
北朝鮮と香港。それに、インドネシア。
グループのトップだけが次のラウンドへ進むチケットを手に出来、有力視
されていたのは、日本と北朝鮮であった。
しかし、日本は出足から足踏みを余儀なくされる。インドネシア、香港での
アウェー・ゲームは、共にスコアレス・ドロー。格下と見なされていた国々から
勝利を奪えないままに帰国していた。
そして1989年6月4日、日曜日。4年前とは違い澄み渡る青空に恵まれた
国立競技場で、日本は再び北朝鮮代表を迎えた。
前回の対戦では、日本が白、北朝鮮が赤であったが、今回は真逆。
日本が赤いユニフォームに身を包み、北朝鮮が白いユニフォームで現れた。
初めてヤタガラスを胸にしてW杯予選に挑む日本。ユニフォームと同様に、
スタンドの光景も一変し、多数の北朝鮮サポーターに負けじと日の丸が
あちこちで揺れていた。
日本のフォーメーションは3-5-2。とはいえ、キックオフしてから日本が構成
するラインを読むと、実質的には2-4-2-2の布陣。
井原と堀池が最後尾に位置して、その前で柱谷と信藤がストッパー役に。
所属チームではFWを務める森と佐々木がサイドバックのような位置に入り、
6人で守り、4人で攻めるという分業体制が顕著に見えた。
対する北朝鮮は、1966年のW杯で国の英雄となったパク・トゥイク監督が
率いるチーム。4年前と変わらぬ4-3-3の布陣は、国立で苦汁を味わった
選手が5人も残り、世代交代も進んだ感はなかった。
6月にしてはかなり汗ばむ夏のような暑さに、北朝鮮も省エネのスタイルを
意識したのか、激しいプレスをかけて来ない。
フィニッシュは遠目から狙うばかりで、サイドを執拗に突く攻撃もなし。
日本が守備重視の布陣を敷いていていることを差し引いても、怖さを感じ
させるプレーは少ないまま。
とはいえ、日本も攻撃のキーマン水沼にボールが渡らず、2トップは孤立。
ウイングバックを使ったワイドな攻撃も見られず、簡単なパスミスから敵に
奪われては自陣に多くの選手が引いて行く。
前半は互いに腰が引けた状態で無得点に終わり、後半へ。
それでも、時間が経つにつれて陣形が間延びしていくと、縦パスの通る
本数が増し、ペナルティエリア内までDFラインが押し込まれる両チーム。
69分、北朝鮮のオ・ヨンナムに警告が出されると、ゲームが動き出す。
2分後、キム・プンイルのクロスから現代表監督のユン・ジョンスが見事な
ヘッドで先制。
先にゴールを割られたことで、日本が開き直って攻撃を開始する。
74分、左サイドから佐々木が敵を一人かわし、低く早い弾道のクロス。
中央に走りこんだ水沼がダイレクト・ボレー・ショット。素晴らしい形での
お膳立てに、美しく力強いフィニッシュ。
北朝鮮のゴールネットが揺れると、意気消沈していた日本サポーターが
大きな歓声を巻き起こした。
残り時間は10分以上。押せ押せムードが高まる中、疲れの見える前田に
代えて、若く勢いのある黒崎を投入。
前線での高さを増して、パワープレーへの可能性を広げる。
時間もなくなり、3試合連続でのドローが濃厚かと思われた88分、日本に
またもや幸運が訪れる。
自陣からボールを持って上がった長谷川が、一旦、水沼に預ける。
水沼から返って来たボールは後ろに来たため、背後のボールを左足で
強引に上げる。このクロスボールに飛び込んだのは、吉田。競うのは、
北朝鮮の主将オ・ヨンナム。
ボールに触ったのはオ・ヨンナムであったが、GKへ戻すようなヘッドは、
前に出ていたGKキム・チウォンが不在となったゴールへ。
日本が土壇場での逆転に成功。国立競技場が大きなどよめきを生み、
バックスタンドには大きな日の丸も現れた。
序盤の2試合で失った勝点を取り戻す大きな勝利。この時点では、残る
インドネシア、香港とのホームゲームに勝ち、北朝鮮とのアウェーゲームに
引き分ければ最終予選への出場権は無条件で手に出来た。
しかしながら、西が丘でインドネシアを5-0と一蹴しておきながら、
6月18日神戸ユニバーで行われた香港戦は、またもやスコアレスドロー。
4年前には2戦して2勝した相手から勝点2しか奪えず、北朝鮮に乗り込む
こととなった。
運命の6月25日。消化試合が異なるものの、引き分けでは望みが消える
日本は、新設の羊角島スタジアムで0-2と完敗。
前半にキム・プンイル、後半に交代出場したリ・ヒョクチョンがカウンター
からトドメの一撃を食らい、ジ・エンド。
TV中継も無かったため、試合内容は活字で伝え聞くのみであったが、
35,000人収容のスタジアムに超満員の4万観衆が詰め掛けた北朝鮮人民
を喜ばせるだけの結果に変わりはなかった。
キーワードとなったスピードも全く感じられない選手と戦術。
フォーメーションに囚われ、自由を失った選手たちが輝きを放つことも
なければ、チームが生き物のごとく一つの方向を向くことなど無理な話。
リーグの盟主となった日産の選手を軸にチームを構成すべきであった
とか、リーダー不在の中で加藤を復帰させるべきだったという声は当然の
ように広がり、組み立てのパスを供給できる名取を冷遇したことや、選手を
本来のポジションで使わなかったことについても批判は止まなかった。
世界との距離を詰めるどころか、更に弱体化した代表チーム。
サポーターの心も完全に離れて行き、横山監督の解任運動だけではなく、
JFA後援会からの脱退運動までも引き起こした。
日本サッカーの未来像が、絶望的なまでに見えなかったこの時期。
夜明けの前が一番暗いと言われる通りに、日本代表もどん底の状態に
あった。
ラモスが日本国籍を取得し、ブラジルから三浦知良が凱旋帰国するのは、
翌年のこと。
最も明るい夜明けが訪れることを確信する者は、まだ誰もいなかった。
1989年6月4日(日) 国立競技場 観衆35,000人
日本 2(0-0/2-1)1 北朝鮮
得点者:日本−水沼(74分)オウンゴール(88分、オ・ヨンナム)
北朝鮮−ユン・ジョンス(71分)
日本:横山謙三監督
GK 松永(日産)
DF
信藤(マツダ)、井原(筑波大)、堀池(読売ク)
MF 森(フジタ)→(61分梶野/ヤンマー)、柱谷哲(日産)、
佐々木(本田)、
長谷川(日産)、水沼(日産)
FW
吉田(ヤマハ)、前田(全日空)→(84分黒崎/本田)
北朝鮮:パク・トゥイク監督
GK キム・チウォン
DF
キム・グァンミン、オ・ヨンナム、チャン・クムチョル、パク・グァンチョル
MF
タク・ヨンビン、リ・ジョンマン、キム・チャンギョ
FW
ユン・ジョンス、キム・プンイル(アン・ジェヒョク)、ハン・ヒョンイル
|
著者:らいてぃー
|
|
 |
| |
| |
メールマガジンの
ご購読(無料)は
こちらから <enter> |
| |
|
|
|
 |
|
|