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2005/02/10掲載
【背番号のあれこれ】
 
先頃、ACミランのDFパオロ・マルディーニが着けている背番号3が、彼の引退後に永久欠番となることがクラブより発表された。ACミランにおける永久欠番は、DFフランコ・バレージの6番に続くもの。10代にしてレギュラーポジションを掴み、今もミランの代名詞的存在として最終ラインに君臨するマルディーニにとっては、この上ない勲章となった。

Jリーグに永久欠番は存在しないが、プロ野球では既に馴染み深い制度として認知されている。

巨人軍黄金期の主役、王貞治の1と長嶋茂雄の3は、余りにも有名。阪神の村山実(11番)、広島の山本浩二(8番)といったチーム史上に残る功労者の背番号も、ファンの間で余人の選択を許さない神々しさを得るに至っている。

永久欠番の制度は、特にアメリカのスポーツ界で広く浸透して来た。黒人として初のメジャーリーガーとなったジャッキ−・ロビンソンの42番がリーグ全体での永久欠番となっている他、20世紀を代表する豪速球投手ノーラン・ライアンは、複数の球団で永久欠番の扱いを受けている。

NBAなら、マイケル・ジョーダンの23番にマジック・ジョンソンの32番が、スーパースターの代名詞として確立されており、NHLでもウェイン・グレツキーの99は、特別な意味を持つ数字となっている。

マルディーニやバレージを生み出したセリエAでは、カリァーリの黄金期を担った英雄ルイジ・リーバの11番が永久欠番の走りとも言える存在。ナポリもマラドーナの10番を、ローマはアウダイールの6番を永遠に封印して偉大なる異邦人に敬意を払っている。(*ナポリの所属するセリエCでは、固定番号制ではないため、一時的に使用中。)

とはいえ、他の国々では永久欠番を認めていない国が圧倒的多数。サウジアラビアのアル・ナスルが国民的英雄のマジェド・アブドラーの9番を空かせているくらいで、欧州・南米の主要国では常に次代を担う選手に期待を込めて番号が託されている。

Jリーグもその例に漏れず、永久欠番は認められていない。但し、サポーターの番号として認知されている12番を空かせることだけは、例外的に許可されており、幾つかのクラブが欠番扱いとしている。

Jリーグは1993年の開幕以後、4シーズンは固定番号制を採っておらず、先発が1から11まで控え選手が12から16番という形で運営されていた。しかし、1番と16番に固定されていたGKはまだしも、フィールド・プレーヤーの番号が流動的になることは、サイズ別にユニフォームを余計に揃える手間がかかることや選手のイメージ作りにも寄与しないため、1997年のシーズンから固定番号制度に戻された。(*旧JFLでは、日本リーグ時代からの固定番号制度を継続して採用。)

また、Jリーグでは、規定により1番がゴールキーパーの番号と定められている他、0番の使用も禁じられている。(*旧JFLでは柏のGK大橋昭好が0番を着用していた。)

なお、背番号はトップチームの登録人数に準じた数字を連番で当てはめることを原則としており、一人だけ突出した大きな番号を選ぶことがないように指導されている。

近年、イタリアやポルトガルで流行っている大きな背番号は、生まれた年を選んだものだったり、覚えやすいゾロ目の数字に人気が集まるようだが、FCポルトのマッカーシーのような77番を背負う選手は、今のところJリーグで生まれることはない。

歴史を紐解くと、背番号が提案されたのは、1907年。もちろん、サッカーの母国イングランドにおいて。但し、最初の発案はFAにより拒否され、リーグ戦で初めて背番号入りのユニフォームが着用されたのは、1928年8月25日。シェフィールド・Wのホーム、ヒルズボロに乗り込んだアーセナルとホームでスウォンジーを迎えたチェルシーが伝統のユニフォームに番号を初めて縫い付けた。FAカップでは、1933年のエバートン対マンチェスター・シティ戦。エバートンのGKサガーが1番を着け、11番までをホーム・チームが着け、アウェー・チームは12番から始まり、シチズンズのGKランフォードが22番を背負ったという。

1937年にハンプデン・パークで行われたホーム・インターナショナル、スコットランド対イングランドは、国際舞台で初めて背番号がお目見えした試合。この試合をきっかけにして、1938年のW杯フランス大会でも採用されることとなった。

その後、イングランドでは1939年に全チームが背番号入のユニフォームを着ることが義務化され、番号は全て背中にシャツと対比される色で、縦8インチ以上の大きさを示すものでなければならないとされた。

同時にポジション別の番号も規定され、ライトバックが2、レフトバックが3、ライトハーフバック4、センターハーフバック5、レフトハーフバック6、アウトサイドライト7、インサイドライト8、センターフォワードが9。10はインサイドレフトで、アウトサイドレフトが11と、先発メンバーの布陣を元に背番号も統一されていた。

この時定められた基本的な番号の付け方は、後世まで引き継がれることとなり、今でも2番は右サイドバック、9番はストライカーというイメージが定着していることは、周知の通り。

1はいつでもどこでも、GKの番号。オリバー・カーンやホセ・ルイス・チラベル、ディノ・ゾフなど守護神は正GKの証である1番を当然のように背負ってきた。

2番は、ブラジルのカフーやジョルジーニョにエリック・ゲレツ、フィル・ニールなど、右サイドで地位を確立した選手の代名詞。3番はパオロ・マルディーニやアントニオ・カブリーニ、アンドレアス・ブレーメと左サイドの支配者が顔を揃える。

今の4番で有名なのはパトリック・ビエイラ、少し前ならロナルド・クーマン。ポジションは違えど、2人とも後方からゲームを組み立てることの出来る選手であった。

5はベッケンバウアーやファルカンなど中盤のそこに位置する選手が有名で、6は多くの名リベロを輩出して来た。ベッケンバウアーもつけることがあったし、ガエタノ・シレア、ダニエル・パサレラ、ミオドレグ・ベロデディッチ、そしてフランコ・バレージと稀代の名手が並ぶ。

ラウル・ゴンサレスがクラブでも代表でも手放すことが無い7は、フィーゴやベッカムも代表チームで背負う番号。とはいえ、すっかり7番のイメージが定着したラウルでも98年のW杯では10番を与えられ、モリエンテスが7を着けていた。スタンリー・マシューズやレナトなど歴代のウインガーが着けていた他、キビン・キーガンやジョージ・ベスト、ホルヘ・ブルチャガ、ラカトシュらもこの数字と共に記憶されている。

8を好んだ選手といえば、フリスト・ストイチコフ。車のナンバープレートも強引に8にするなど思い入れは人一倍強い。他に、パラグアイの英雄ロメリートやカレル・ポボルスキーも8を愛する選手だが、前述の2人とは全くポジションの異なるマルセル・デサイーもミラン時代に与えられた8を代表チームで守り続けていた。

歴代の傑出したストライカーは、当然のごとく9番に集中している。ロナウドからバティストゥータにカレッカ、ファン・バステン、ブトラゲーニョ、ダボル・シュケル、ロジェ・ミラ。思いつくままに挙げても、皆、同じ背番号の点取屋である。

攻撃的MFの代名詞のように思われる10は、神様ペレにマラドーナ、プラティニ、ストイコビッチ、ハジ、バルデラマとピッチ上の指揮官が背負った全能の印。今では、余りに特別な意味を持つ番号となっているために、「重過ぎる」として拒否する選手が続出したJクラブもあったほど。

但し、司令塔となるタイプの攻撃的MFが生まれにくいイングランドでは、10番もストライカーの番号となっている。かつてはガリー・リネカー、今はマイケル・オーウェンが代表の10番であり、クラブレベルでもMFよりFWの選手に与えられることがほとんど。

日本でカズの番号として認知されている11は、ウインガー出身の点取屋に多く、カール・ハインツ・ルムメニゲ、ヘンリク・ラーションなどがその代表格。ロマーリオにマルセロ・サラス、ヤン・クーレマンスといったタイプの異なるストライカーたちも11を偏愛している。

元来、先発メンバーの背負う番号ではない12番以降は、代表チームでのイメージを形成することが多く、自身のクラブで選ぶ数字を代表と同じにする選手は少なくない。

洪明甫の20に黄善洪の18は、彼らが初めてW杯に出た際の番号で、以後は自身のトレードマークとすることに成功した好例。

また、11番までは他人の影が残るとして独自のイメージ作りを試みた選手といえば、言わずと知れた14が代名詞のヨハン・クライフ。クライフの残した功績が余りにも大きすぎたため、オランダ国内では14も10や9以上に意味ある番号として認識されるようになった。

代表チームでも、通常はレギュラークラスに軽い番号が与えられ、サブの選手が12番以降となるが、機械的に番号をふる国も珍しくはなかった。

その代表格がアルゼンチンとイタリアで、1982年までのアルゼンチン代表は、単純に姓のアルファベット順で背番号を決めていたため、MFのアルディレスが1番を背負うという珍しい姿になった。

アルゼンチン大会で優勝した際の主将、DFのダニエル・パサレラは絶対的なスイーパーであったにも関わらず19番だったし、1986年の大会でもFWのクラウディオ・ボルギが4、GKネリー・プンピードは18、DFオスカル・ルジェリは19という番号を背負っていた。但し、メキシコでは完全なアルファベット順にはしておらず、バルダーノの11、パサレラの6、そしてマラドーナの10だけは例外に。実績と格を備えた重鎮だけは、好きな番号が与えられた。

イタリアでは伝統的にポジション別に番号が割り振られ、GKは最初と最後の番号で、若い数字からDF、MF、FWと順に並べて行く形を採っていた。このため、歴代のイタリアのストライカーは常に大きな数字を背負い、スキラッチは19、クリスチャン・ヴィエリ、ジャンルカ・ヴィアーリが21、黄金の子パオロ・ロッシは20だった。

イタリア大会を例にとっても、MFはジュゼッペ・ジャンニーニが13、若きロベルト・バッジオは15、ロベルト・ドナドニが17。当時はパオロ・マルディーニも7であり、GKには1、12、22が与えられた。

代表チームでは、著名な選手でもデビュー当時に意外な番号を背負うことは珍しいことではなく、1988年の欧州選手権で大ブレイクを果たしたマルコ・ファン・バステンは12だったし、ユルゲン・クリンスマンも最初に与えられた18を自分のものとして手放すことはなかった。

今なら、ブルーズでは12が定番のティエリ・アンリやアラン・ジレスもこだわりをもって番号を守り続けた選手。13番を強烈に焼き付けたゲルト・ミュラー、ヨハン・ニースケンスもそうであるし、アイルランド代表での16をクラブでも定着させたのはロイ・キーン。

多くの選手たちが、背番号に並々ならぬ思い入れがあることは言うまでもない。カズが練習時のビブスでも11を探したというエピソードは有名であるし、インテル時代のイバン・サモラノがロナウドに9を奪われた後、18の間に+(プラス)のマークを貼り付け、1+8=9だというアピールをしたのは、大きな話題をさらった。

現代表の玉田も柏入団当初から背負う28を2+8=10という意味に捉え、2シーズン前にあった番号変更の提案を拒否しているし、今では代表でも他の選手と離れたこの数字を選び続けている。

背番号には個々の思い入れやイメージがあり、託す側にも願いが込められる。入団後すぐに軽い番号を与えられたり、クラブに尽くしてきた選手の番号を譲り受けるのは、大きな期待の表われ。横山政権下でのラモスとカズがそれぞれ14番と20番だったのは、クライフとロッシの役割を監督が求めたことから決められたもの。

託される側だけでなく、割り振る側にも様々な思いが馳せられる数字は、選手自身のパーソナリティーをも体現する。憧れの番号がスターの残像と重なりながら次世代に受け継がれ、多彩なイメージが形成される。スポーツにおける背番号は、選手を識別するための単なる数字ではない。

著者:らいてぃー 

 
 
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