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| 2004/1/30掲載 |
| 【原点回帰=日立の伝統?】 |
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今季、柏のキャッチフレーズは「走魂宣言〜魂込めて走ります〜」ということで、かつて70年代に「走る日立」として名を馳せた時代を懐かしむかのようなコピーを冠することとなった。近年の低迷から脱却するため、原点回帰とも取れる方針を打ち出したとも言えるだろう。
日立サッカー部に「走る」という枕詞が付けられたのは、1970年代初頭。高橋英辰監督の下で1972年に2冠を達成し、小柄な選手が多いチームが運動量を武器に頂点を極めた頃であった。そして、1972、73年とエースストライカー松永章が2年連続得点王を獲得。1976年には天皇杯、1976年はJSLカップと、5年の間に4つのタイトルを手中にした日立は、間違いなく日本リーグを代表する強豪の一角に数えられていた。
だが、残念ながら、筆者には当時の日立がどのようなサッカーをしていたのかという記憶はない。
JSLに足を運ぶようになったのは1980年前後からで、筆者が初めて日立の選手に注目したのは、CF碓井博行の代表復帰がきっかけ。当時の日立からはDFの菅又哲男や須藤茂光が代表の常連となっていたものの、マレーシアや台湾にも勝てなかった時期の日本代表にはまるで期待などかけられるものではなかった。
だが、1984年のゼロックス・スーパーサッカーで、ブラジル代表のMFソクラテスを擁するブラジルの名門コリンチャンスが来日した際、日本は予想を覆して3戦を2勝1敗と勝ち越したのだった。この時、それまでウイングで使われていた木村和司をMFにコンバートしたことと同時に話題となったのが碓井の活躍。1980、82年と2度の得点王に輝いたCFの復活は、五輪予選を控えた日本に光明をもたらしたとされて、専門誌などで大きく取り上げられた。
結局、ロサンゼルス五輪最終予選は惨敗に終わったが、初めてJSLで意識して観た当時の日立は、日本代表以上に不甲斐ない状態にあった。碓井、菅又、須藤と3人の代表選手を擁しているにも関わらず、チームの幹が固まっていない感じで、単に蹴って走るだけの展開に終始。確かに碓井の存在感はあったが、相手に支配されてばかりの中では、まともにチャンスに顔を出すことさえ難しそうだった。
これでは、下位争いをするのも当然という内容。読売や日産の選手と比べても技術には圧倒的な差があり、一人の外国人選手もいない日立には、まるで魅力など無かった。「走る日立」という言葉自体は知っていたが、特段、運動量がすごいとも感じなかったし、一人で局面を変えられる選手もいなければ、チームがどうやって点を獲りたいのかも伝わって来なかった。戦術はあったのだろうが、ディフェンダーがクリアして前線に蹴り込むばかりで、中盤から組み立てるという意識はまるで見えなかった。
1985年のシーズンには、MF西野朗が釜本邦茂(ヤンマー)の持つ連続ゴール記録に迫る活躍を見せていたことで注目を集めたが、この時期のサッカーさえ、必死に守って少ないチャンスを西野が生かしていただけという印象が強い。記憶にある西野のゴールシーンも、セットプレーからのこぼれ球を押し込んだもの。自分の目が西野ばかりを追っていたせいもあろうが、他に目に付いた動きを見せた選手もいなかった。
正直、当時の日立サッカーは、観るに値しないものと思っていた。というより、1980年代のJSLで金を払ってもよいと思えるものを見せてくれるチームは、読売と日産以外にほとんどなかったのではないだろうか。
古河やフジタ、ヤマハといったチームが一時的に強い時期もあったが、興行という側面からしても、単純にプレーを楽しむ意味でも、観客を魅きつけることが出来たのは、ごく一部の選手とチームだけであったのだ。
読売なら、与那城のドリブルにラモスのパス、戸塚のシュートなど観る者を唸らせるプレーが必ずどこかにあった。日産でも木村のFKに釘付けとなり、水沼や金田のドリブルに感嘆の声を上げた人は多いはず。
読売と日産の黄金カードでは、観客もある程度入っていたし、三ッ沢で行われた試合では、スリリングな展開に興奮した観客が、試合終了と同時に次々とスタンドから飛び降りるという事件さえ起こっていた。
だが、日立−三菱や全日空−古河電工といったカードで、そんなことは
起こるべくもなかった。当時、サポーターと呼べる存在がいたのはサンバ隊がいた読売だけで、日産もファンクラブの会員こそいたが、応援は会社のチアリーダーが中心という状態。他のチームは、チアリーダーさえいないところもあり、固定ファンにしても毎試合熱心に駆けつけるような人は、チームの関係者だけであったのではないだろうか。
しかも、日立サッカー部の拠点は、80年代末に柏へ移転するまで東京の府中にあった。当然、これでは千葉の人間が応援する気にはならない。今の柏サポーターの中でも、日立の社員や家族でもない限り、日立の黄金期から応援していたという人は、皆無に近いだろう。
1980年代も後半に入ると、2部へ転落した日立。何の魅力もなく、弱いチームに観客が来る訳もなく、メディアでも試合結果を知るのがやっとという時期が続いた。そんな状態にあったチームを再び観に行ってみようかと思わせたのは、1989年。日立が元セレソンのウインガー、ゼ・セルジオの獲得を発表したときだった。1985年のキリンカップ、サントスの一員として来日したゼ・セルジオは、素晴らしい活躍を見せてサントスの優勝に貢献。ウルグアイ代表との決勝戦でも1ゴールを挙げて、存在感をアピールした。
それまで、日産にオスカーというセレソンの主将まで務めた選手が来た
ことがあったが、やはり観に行きたいと思わせるのは攻撃の選手。
日産がオスカーの力によってレナトという元セレソンを獲って来ると、それまでの読売との立場が一気に逆転。2年連続3冠を達成する原動力となったのは記憶に新しいところだった。
そんな折、ブラジル代表を経験した選手が2部だったチームにやって来るというのだから、どれだけ技量の差を見せてくれるのかと、楽しみに思ったのも当然だろう。しかも、日本人ではあるが、ブラジルに帰化してサンパウロFCでプロ契約を果たしたMF水島武蔵も加入。これで、日立に再び注目したサッカーファンも少なくはなかったはず。
とはいえ、実際に柏で観た水島やゼ・セルジオのプレーにはがっかりさせられた。というより、ブラジルのプロ経験のある選手を全く活かせない
日立のサッカーには幻滅した。まだゴール裏には立ち見席さえなく、ベンチ席の並ぶスタンドも今より遥かに小さかった頃。日立のサッカーは、まさに低レベルそのものという思いのするものだった。
水島は「中盤からのスルーパスを見て欲しい。」と言っていたようだが、
そんなスルーパスを受ける動きをしている選手もいなければ、水島がきちんと前を向いてボールを受ける場面もわずか。ゼ・セルジオもボールを持つとすぐに囲まれ、パスの出しどころを失う場面が目立っていた。
年齢のせいかキレもそれほど感じられず、はっきり言ってラモスやレナトの方が遥かに良い選手だと思ったことを覚えている。
確かに日本人選手の質もひどかった。サイドバックの選手は、守備の際にタッチラインへ切ってしまうばかりでつなげる意識はゼロ。
中盤の選手も緩急をつけて崩すイメージなど無きに等しいようで、FWを
走らせる縦パスばかりを出していた。現監督の池谷もまだ現役だったはずだが、試合に出ていたのかさえ記憶に無い。
日立にとっても、暗黒の時代だったと言えるJSL末期。
個人的に最も記憶に残っているのは、国立競技場で行われた1991年度の天皇杯準決勝、読売クラブとの試合である。
トヨタや東芝といったチームを破って久しぶりに上がってきた日立。
この年のルーキーだったFW谷真一郎が、筑波大時代に代表経験を得ていたことで注目されていた。そのスピードには確かに非凡なものを感じさせたが、縦に急ぎ過ぎる余り、うまくボールに触われない場面も多く、ロペスとの相性も良いものとは思えなかった。唯一目立っていたのは、CBヘジス。堅そうな動きながらも、強力な敵の攻撃陣を必死に止める姿は、助っ人としての責任感に溢れていた。
しかし、全般的には力の差が大きい相手ということで荒っぽいプレーも多く、技術で負ける分を強引に反則で補っているような印象があった。
たびたび読売の選手がピッチに倒れ、痛そうにしていたが、9割以上の観客が読売を応援していたため、完全に日立は悪役となっていた。
「おい、日立。ラモスは日本の宝だ!壊したらタダじゃ置かないぞ。」と野次が飛んだ際に「そうだ!」「身の程をわきまえろ。」といったセリフが
後に続いたように、日立の応援団が陣取る一角以外からは、読売が万全の状態で決勝まで進むことを願う人しかいなかった。
結局、武田のゴールで読売が決勝に進んだのだが、Jリーグの創設が間近に迫った中、日立がトップクラスのチームに付けられた差は随分と
大きなものであった。技術で劣る部分が大きかったのはもちろん、かつては売りとしていた走力でも、完全に読売の後塵を拝していた。
すでに30歳を越えていたラモスの方が圧倒的にピッチを支配する動きを見せていたし、都並のようにリスクを背負ったオーバーラップで胸を躍らせる選手も、日立には存在しなかった。
それから10年以上。今以上に厳しい環境の中での低迷を教訓として来たはずなのに、再び四半世紀も前のキャチフレーズを彷彿させる必要に迫られた。幾度もリードを守り切れずに悔しい思いをした昨季。簡単に足の止まる選手を見て、情けないと思ったサポーターは数知れないはず。
しっかりと「走る」ことによって躍進を遂げた昨季の市原を見て、今季の柏が黄金期のスタイルを取り戻そうと決めたのかは定かではないが、走るための精神力や明確な目的も具現化する必要があるだろう。
伝統は一朝一夕には出来るものでもない。その上、「走る」伝統など、実はとっくの昔に消え去っている。だが、サッカーの基本というよりスポーツの基本を忠実に鍛える方針は、若く試練の足りないチームにとっては有効なのかもしれない。
インターバル走やロードレースなどでもどれだけ自分を追い込めるのか、どれだけ心配機能を向上させられるのか、一つ真剣に取り組んで欲しい。体力面で未だに最年長の加藤のことを「すごい」と言っているような若手には、はっきりと自覚が足りないと言うべき。
「90分走れない選手は、途中からでも使わない。」というような方針でも
示して行く厳しさが、今のチームには必要なのではないだろうか。
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著者:らいてぃー
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