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2004/07/07掲載
【早野宏史】
 
先週、池谷友良監督が成績不振の責任をとって辞任。これに伴い、現サッカー解説者の早野宏史氏が新監督に就任することが発表され、昨日、その就任記者会見が行われた。

早野宏史。これまで、横浜マリノスとガンバ大阪で指揮を執り、Jリーグでの監督経験も100試合以上に及ぶ。1995年には、ホルヘ・ソラリ監督の後を引き継いだ横浜Mにおいて、チャンピオン・シップ優勝という勲章も手にしている。

昨年4月に、マルコ・アウレリオ監督更迭の話が浮上したした際、次の第一候補としても名前が挙がっており、以降クラブサイドでもコンタクトを取り続けてきたことが、今回の監督就任につながったものと推測できる。

早野新監督は、1955年11月14日、神奈川県川崎市の出身。その世代の大多数に漏れることなく、プロ野球選手に憧れる少年時代を送っていたが、中学校入学と同時に、1年時から試合に出られると聞いたサッカー部の門を叩く。

ここで自分に合ったスポーツに出会った早野は、めきめきと力を付け、地元の県立生田高校に進学すると、ユース代表にも選ばれるほどの実力を備えるまでに成長した。

当時のポジションは、FWまたはMF。攻撃的なポジションで、精力的な働きを見せる選手という評であった。高校3年の1973年には、ユース代表の一員として第16回アジアユースにも出場。全国の関係者に、早野の名を知らしめる。

こうした実績から中央大学法学部に推薦入学を果たすと、1年の時には、再び日の丸を着けてアジア・ユースに参加。また、1年時からメンバー入りした関東大学リーグでは、すぐに優勝も経験する。

同期には、前柏強化部長で現在は清水のGMを務める久米一全がおり、翌年には、下級生として元U17代表監督で日立時代にはA代表の常連でもあったDF須藤茂光も加入する。

だが、ときは早稲田や法政の全盛時。以後のタイトルには縁がないままに4年間は過ぎ、2つ下に超絶のテクニシャン金田喜稔がいたにも関わらず、成績は思うように上がらなかった。

ユース代表での実績はあったものの、早野自身にスポットライトが当たることも無くなると、いつしか忘れ去られた存在となって行く。

卒業後もサッカーを続けたいと思っていたいた早野だったが、三菱や古河、日立、ヤンマーといったJSLの強豪から声が掛かることはなく、大学の監督に相談する。

そこで紹介されたのが、当時JSLの2部にいた日産自動車。
3年前の1974年に加茂周監督を抜擢し、長期的な強化プランを立てていた日産は、早野に興味を示し、本社のある銀座で接待した。

晴れてプレーを続ける場を得て、卒業後の1978年に日産自動車へ入社。168センチ60キロと体格に恵まれた訳ではなかったが、エネルギッシュな動きと積極果敢な突破を売りとして、すぐにレギュラーの座を奪取。中盤の左サイドを主戦場とし、チームを活性化させた。

ルーキーイヤーの1978年シーズンには、JSL2部でベスト11に選ばれる
大活躍を見せ、日産が初めて1部に昇格する原動力となった。

だが、1部で暮らした1979、1980年は、2年連続で最下位。再び2部へと
陥落してしまう。

加茂監督の下、長期的視野も持ったチームづくりの途中にあった日産。実績も乏しく、有望な選手を集めることが出来なかったことで、1部ではどうしても選手の質が他のチームより劣っていた。

大学時代に名を馳せた選手といえば、一つ上の清水秀彦(法政大学)、下条佳明(早稲田大学)くらい。早野を始め、大学の先輩でGKの坂田六雄なども完全に無名の部類に入る選手であった。

しかし、1980年に大学の後輩でフル代表のレギュラーでもある金田喜稔が入社すると、風向きは一変する。翌年には、同じく代表のウインガー木村和司(明治大学)も日産に加入。抜群のスキルを誇る2人の代表選手を抱えたことで、一気に魅力を増した日産は、スカウトにも一層力を入れる。

木村、金田の活躍で1982年に1部へ復帰すると、1983年には柱谷幸一
(国士館大学)、越田剛司(筑波大学)、田中真二(中央大学)といった現役代表選手に加え、水沼貴史(法政大学)、境田雅章(愛知学院大学)、杉山誠(東京農業大学)といった大学サッカー界の有力選手を根こそぎ獲得することに成功。

更には、フジタの黄金期を築いたマリーニョも加入し、専門誌から「日本
のユベントス」と形容されるほどに戦力を整えて行く。

大物新人が大量に加わった1983年には、リーグで2位に躍進し、そして、1984年の元旦には、日産にとって初タイトルとなる天皇杯をも手中にする。とはいえ、この急激なレベルアップは、やはり能力の高い新人選手たちの力によるところが大きく、特に攻撃面でのタレントは際立つものであった。

入部当初は攻撃的なポジションだった早野も、守備的な役割にシフトして行くのだが、清水のMF転向などもあって完全にポジションを失う。
時代の流れに乗り、会社での仕事が軽減されてサッカーに傾ける時間
が多くなる一方、出場時間は減るばかりだった。

そして1985年、30歳になっていたこともあり、チームが再び天皇杯を掲げるのを見届けて現役を引退する。

その後、しばらくは社業に戻っていたが、わずか2年で指導者への道を
打診されてスーツを脱ぐ。1987年にファームの監督に就任すると、以後は、Jrユースやユースだけではなく、レディース・チームの監督まで引き受け、あらゆるカテゴリーの指導に携わる。

日本サッカー界の先端を行く日産自動車といえども、サッカー専任のスタッフなどほとんどいない時代。指導はもちろんのこと、一人で選手の募集から経理、雑用などの運営面にも精を出し、下部組織の充実に貢献して行く。

そして、1992年。トップチームのコーチに抜擢されると、チームメイトだった清水監督の下で天皇杯優勝という美酒を味わう。翌1993年には、Jリーグがスタートし、ライセンス制度も本格的にスタート。
横浜Mのコーチだった早野のところにも、S級ライセンス取得の打診が来る。

それまで籍は会社にあったが、これでプロの指導者となる決意を固めると、1995年にライセンスを取得。
事後報告の形を取り、プロの指導者として再出発することになる。

Jリーグ開幕から2年。常に優勝候補筆頭に挙げられていた横浜Mだが、タイトルからは見離されていた。そこでクラブが招聘したのが、アルゼンチン人のホルヘ・ソラリ監督。名将の誉れ高い新監督は、代表選手を多く抱えながらも勝ち切れなかったチームを瞬く間に生まれ変わらせた。

この年から選手交代枠が3つに広がったこともフルに活用。一気に3選手を交代させる思い切った采配は議論を呼んだが、ことごとく打つ手が当たる眼力に周囲の目は尊敬と驚嘆を隠そうとはしなかった。

横浜Mは、順調に首位を快走。ところが、サントリーシリーズが16試合を終えたところで中断されると、アルゼンチンに帰国して胃潰瘍の治療を行なっていたソラリ監督が突如退団。同時にコーチを務めていた息子のソラリJrとフェルナンデス氏も退団してしまう。

ここで白羽の矢を立てられたのが、早野コーチ。オーストラリアのキャンプから戻ると、すぐに監督就任を打診されてチームの指揮を執ることなった。

ソラリ前監督の築いた形を崩さずに、良い流れを踏襲することに力点を
置いた早野監督は、V川崎の猛追も振切り、念願のステージ制覇を達成。川口、松田、遠藤といった若い力に井原や小村といった代表組、そしてサパタ、ビスコンティ、メディナ・ベージョというハイレベルな助っ人を巧みに融合させて強力な布陣を築き上げた。

更にニコス・シリーズを3位で終えると、チャンピオン・シップでは、V川崎の3連覇を阻み、総合王者にも輝いた。

しかしながら、初めての1シーズン制となった1996年は、開幕当初から調子が上がらず、優勝争いに絡むこともなく8位で終了。サポーターからも解任を求める声が大きくなり、シーズン終了後には実質的に更迭される形となった。

長く身を置いた日産を離れると、翌1997年には解説者に転身。NHKを中心として、お茶の間で頻繁にその声を聞くようになる。この年には、スペインのレアル・.マドリーへ短期留学も経験。指導者としての充電も図っている。仏W杯では、予選から本大会までメインの解説者として活躍。多くの試合を軽妙な語り口で味付けしていた。

2年以上に渡って現場を離れていた早野に、次のチャンスが巡って来たのは、1999年8月。フランス・リーグ、バスティアの監督に就任するため、ガンバ大阪の監督を辞任したアントネッティ氏の後任に座ることとなった。

稲本、宮本を始め、吉原、小島といった若いタレントが豊富に揃うチームを「ガンバ・ボーイズ」と呼び、少年のチームを大人に変えることが自分の使命だと言い切っていた早野監督。

しかしながら、各年代の代表に入る選手が生まれる一方で、チームの成績は不安定なまま。2000年の2ndステージでは、第11節まで首位を走ったものの、鹿島、柏と優勝を争うライバルとの直接対決で敗れてしまい、結局4位。稲本をイングランドへ送り出すことになった翌年の1stステージも5位と、大きな期待に応えるだけの結果は残せなかった。

恐らく、ガンバ時代のピークは、2000年度の後半。リーグでの好成績に
加えて、天皇杯でも準決勝まで残ったチームは、ニーノ・ブーレやビタウといった優良外国人の存在もあって一つの形を見出した時期と言えるはず。

とはいえ、横浜マリノスでの1年半では、35勝31敗。ガンバ大阪での2年間では、31勝33敗4分という成績。それぞれ勝率は、53.0%と45.6%と、決して高くはない。横浜では1位、3位、8位と下降線を描き、ガ大阪では13位、13位、4位、5位と来たところで解任されている。(*形式上はどちらも辞任)

相手チームの研究に熱心で、ミーティングでも細部に渡る話が少なくないというタイプ。選手との対話を大事にする側面も見受けられるが、自己主張の出来る選手が少ない柏に、勝利への強い意識を植え付けられるのかは未知数。

愛称は「ボンさん」。日産(横浜)時代には非常に慕われる存在であったし、解説業ではオヤジギャグと言われる駄洒落を度々披露していたように、元来は非常に気さくな人柄を持つ。

そんな早野監督が、過去2度の監督経験をどのように活かして、チーム
を変えてくれるのか。興味は尽きない。

著者:らいてぃー 

 
 
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