元々はハーフバックだったが、ヴィク・キーブルがいたためにFWに転向。リーグ25試合で12ゴールを挙げるという成功を収めた選手。ミルウォールやコルチェスターでもプレーし、南部リーグのラムフォードでは400試合に出場した。
コーク・シティから加入。マルコム・アリソンやデイブ・セクストン、ケン・ブラウンたとともにオリジナルのアカデミーを形成した一人。リーザーブチームで50試合以上をプレーしてから、ようやく1950年12月のノッツ・カウンティー戦でペインター監督からトップ・デビューのチャンスをもらった。その後トップでは200試合以上に出場し、アイルランド代表としても7度、緑のシャツを着た。1956年にプレストン・NEへ移籍。1961年に引退後は指導者となりトーキーやレスター、マンチェスター・Uで働いた他、1974年にイラン代表監督となって、2年後のアジアカップ優勝などを果たしている。
大学を卒業して加入した右サイドバック。在学中にテストを受けて合格。卒業まで正式契約を延ばしていた。アジリティに優れ、両足を使えるところが大きな魅力とされる。本職は右サイドバックであるが、ウインガーとしても起用でき、ユース年代ではストライカーとしてもプレーしていた。
Mannyの愛称で可愛がられたFW。名前の響きからだけでなく、悪夢とセットになって記憶されるであろう選手。2000年のワージントンカップ準々決勝アストン・ヴィラ戦で途中出場。ワンチョペが退場する前にピッチに入っていたことで、12人でプレーした時間があったことから、PK戦での勝利が取り消されて再戦に。結局、再戦では敗れてしまい、一躍名前がクローズアップされた。イーストエンドで育った下部組織出身の選手ではあるが、生まれはナイジェリア。幾度もレンタルに出された挙句、無償でオックスフォードへ去った。
ノンリーグのアヴェリーでプレーしていたキプロス生まれのFW。1976年1月のQPR戦でデビューしたが、わずか9試合に出場しただけで4月には北米リーグに所属するハワイのクラブに去っていった。
レイ・スチュワートの推薦で1982年に£40万でスコtットランドのモートンから加入したセンターバック。17歳でプロデビューし、中盤でも守備的な役割でプレーでき、使い勝手の良い選手としてみなされていた。リーグ最高の成績を勝ち得た1985-86年シーズンにはレギュラーとして活躍し、ウエストハムでは通算175試合に出場した。
1976年9月のリーグ・カップで対戦した際のパフォーマンスが目を引き、バーンズリーから加入したポーランド系MF。当時欧州を席巻したポーランドの血も期待を裏切ってわずか17試合に出場しただけで、1979年4月サウスエンド・Uへ移籍した。